■■■ 2012.10.28 ■■■

   日本語文法入門書を初めて読んだ

いやー、無教養とはいえ、非学校文法たる「日本語文法」が完成域に達していることを今になってようやく知った。その話をしておこう。

三上文法なるものの存在は耳にしていたとはいえ、その主体は、二次情報か三次情報。こうした非学校文法は亜流扱いだから、日本語文法書をまともに読もうと考えたこともなかったのである。
なにせ、本屋に置いてある文法書は、どれを手にとっても、「主語−述語」の記載から始まっている。それだけで違和感を覚えるので、興味はそこで消えてしまうのだ。
ところが、たまたまだが、新刊本コーナーで「主語−述語」否定論系の本にブチ当たった。そこで、これは読まねばなるまいとなった訳。

素人感覚からすると、もう一歩先の見方もありそうな気がする箇所もあるが、総じて納得できる理屈が並んでいる。
浅学なので、類書として、どんな本があるのか知らぬが、お勧め本である。・・・
  原沢伊都夫:「日本人のための日本語文法入門」講談社現代新書 2012/9/20

テンス、アスペクト、ボイス、ムードが素人向けに分かり易く解説されており、それこそ、学校で習う英語文法より頭に入るから不思議。
でも、こうした文法がよいのかはなんとも。小生は日本語のテンス(時制)を西洋的な論理で見るのは難しそうと見ているからだ。その感覚は、なんとも説明し難いが、日本人の「時」概念は、過去-現在-未来区分ではよくわからぬところがあるというだけの話。

そんな、素人話はさておいて、なんと言っても有難かったのは参考文献リスト。「主語−述語」否定論本の状況がわかったからである。・・・
  三上章:「象は鼻が長い」くろしお出版 1960年
  益岡隆志:「命題の文法−日本語文法序説」くろしお出版 1987年
  野田尚史:「新日本語文法選書1 「は」と「が」」くろしお出版 1996年
  庵功雄:「「象は鼻が長い」入門」くろしお出版 2003年
  金谷武洋:「主語を抹殺した男 評伝 三上章」講談社 2006年


言うまでもなく、日本語では主語表現は曖昧になることが多い。要するに、主語省略が当たり前と言うこと。にもかかわらず、西洋の文法に合わせて、先ずは「主語−述語」を設定するところから始まる文法にはどうもついていけない。しかし、そのように考えることが日本人の「義務」らしいので、諦めていたのだが、そうでもないことを初めて知った。
この本によれば、学校文法とは、現代文学や古典文学を支えるもので、「日本語文法」とは並立しているとのこと。まあ、そう書くしかないだろうが。

小生は、英語文法も遠からず一変すると思う。米国から、その波が訪れ、そこで初めて、日本の学校文法が独占的地位からすベリ落ち始めると見ている。グローバル化の潮流に棹差したところで無理筋だからだ。と言っても、多勢に無勢の状況が続くから、変化にはとてつもなく時間がかかりそうではある。

言語分野のド素人の見方だから、こんな話はどうでもよい。読んだ本の話に戻ろう。
上記の本のリストを見て欲しい。小生は、コレを眺めて、非学校文法の書籍を精力的に扱う出版社の存在を初めて知ったのである。
言語学、異文化コミュニケーション関連の多くの書籍を刊行する「くろしお出版」。国字問題に熱心な、おかのあつのぶ氏が1948年に設立したそうである。
以下が、代表的な専門書のようだ。
  寺村秀夫:「日本語のシンタクスと意味III」 1991年
  グループ・ジャマシィ:「教師と学習者のための日本語文型辞典」 1998年
  日本語文法研究会[編]:「現代日本語文法 第1巻」 2010年


と言うことで、この入門本に記載されている非「主語−述語」文法を紹介すると以下のようになる。実に簡単明瞭な論理。自明だから、説明不要だろう。・・・
  太郎が(主格) 原宿で(所格) 花子と(共格) 珈琲を(対格)を
  飲んだ(動詞)
動詞との関係性を示す「格」を助詞が表現する訳で、この助詞が文の構造を決めることになる。もちろん、どのような「格」表現が必要かは、用いる動詞によって違ってくる訳だが。
その助詞は9個しかないのである。
  ガ(動詞主体---主語) ヲ(動詞対象---目的語) ト(相手)
  ニ(場所、時、到達点) デ(場所、手段・方法、原因・理由) ヘ(方向
  カラ(起点) ヨリ(起点、比較) マデ(到達点)
学校文法だとマデは無く、ノとヤが加わるそうだ。素人が見ても、ノとヤは動詞と直接関係していない。文章における「格」を示す助詞として扱う訳にいかないのは当たり前だ。学校文法は、文章の考え方が根本から違うのがよくわかる。

小生は、これもさることながら重要なのは、話題の提示方法と複文構造だと思う。

前者こそが、日本語らしさを形作っているのでは。このルールを体得しないと、日本語文章は作れそうにないからだ。と言うのは、語句を省略すればするほど、深いコミュニケーションに繋がるのだが、どう省略すべきかは話題によって大きく変わるから。どのように、話題を提示するかは極めて大きな問題な筈。
助詞のガ(主格)とハ(主題提示)の違いはその一角にすぎまい。

複文構造は、この本でも解説してくれるが、日本語の真髄を理解する上で鍵を握る重要な箇所だと思う。英語は動作主体指向的で、日本語は出来事全体把握的な傾向があるとの指摘があるそうだが、複文構造を考えれば、それは傾向と言うより基本ルールとは言えまいか。(池上嘉彦:「「する」と「なる」の言語学―言語と文化のタイポロジーへの試論 」大修館書店日本語叢書1981年)

素人でもわかるのは、英文だと他動詞なのに、和文は自動詞で表現しがちという点だが、その根本は複文構造の考え方から来ているように思われる。次の文は、単文に見えるが、括弧をつければわかるが、複文に近い。・・・
  たぶん、「太郎は花子と結婚する」だろう。
「だろう」の主体はわかっているようで、曖昧で、よくわからない。隠している訳ではなく、実際そうなのだろう。自分だけの推定でもなく、周囲を含めた雰囲気を評価した結果を示しているから、「だろう」を「と思う。」に変える訳にはいかないのである。そうすると西洋型になってしまい、主体が見えてくる。意味が変わってしまうのだ。

「皿が割れた。」と「皿を割った。」(「皿が割られた。」)の違いも、似たところがある。前者は、複合原因で事件が起きた訳だから、皿を割った主体はよくわからないと表現しているにすぎまい。「皿が割れた。」を自動詞表現と見なしたところで、日本語の本質に迫れる訳ではない。「様々な周囲の状況が絡み合った複合要因が」(主格)「皿を」(対格)「割った」(動詞)という「見方」(文章)を「妥当と見ることができる。」(複文)との構造になっているというのが実情だろう。これを短い文章で表現すると「皿が割れた。」になると考えるのが自然なのでは。従って、テンス(時制)では過去形の文章であっても、過去を表現していると考えてよいか熟考が必要そう。

日本語はあくまでも場で表現する言語。他動詞と自動詞という概念は、主語を明示するルールなら最重要だが、日本語は全く異なるから、この動詞分類に拘りすぎると、日本語表現の深層に迫り切れないのではなかろうか。ただ、そんな言語の存在を知らなかった人達に、日本語を教えるには、ここは肝心要の点となるのは間違いなさそう。

素人話なので、この辺りでおしまいにしておこう。


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