■■■ 2012.11.5 ■■■

   素人が考える連濁ルール

連濁(れんだく)とは、日本語において、複合語の後部語の頭の発音が、濁音化する現象を指す。「草花」の読みが、「くさはな」でなく「くさバナ」となるような類。本居宣長の「漢字三音考」が最初の論考らしい。
この規則性を明確に示すのは難しいと言われているようだ。例外が多すぎるからなのだろう。
ともあれ、「連濁論は、音韻論と音声学、形態論・統語論・意味論など様々な観点から多角的に考察を加えなければ、全体の姿を明らかにすることは不可能」ということ。

素人だから、学問的にどのように追求されているのかは知るよしもないが、どうもしっくりこない。
例外が多いとしたら、その理由を推定すべきと思うからだ。先ずは、仮説ありきでは。たとえ外れたってどうという話でもなかろう。

仮説が重要なのは、衆愚政治を防ぐような効果が期待できるから。こんな説明では、わかりずらいか。
統計的に「ほぼ確実」なルールが存在しているといっても、なんらかの条件を前提として解析した結果にすぎない。それに気付かないと、意味の薄いルールを大原則と考えてしまったりするもの。そんな例を知らない人はいまい。つまり、様々な仮説が提起されない限り、たいした進歩は期待できないということ。例外が多いなら、その理由を考え抜き、仮説を立てることにこそ意味があろう。その努力を怠れば、問題の本質に迫りようがないのではあるまいか。・・・さらにわかりづらい説明になってしまったか。
要は、ルールらしきものが見つかったなら、さらなる詳細ルールを明らかにすべく分析に注力するより、どうしてそんなルールが必要になっているのか想定することの方が重要というだけの話。

そんなことは、医学を考えればすぐにわかる筈。
今では考えられないようなインチキ治療が幅を利かせていたのはご存知の通り。現時点でも、恣意的なデータ援用で正当性を誇る治療は少なくない。これを避けるためには、勝手な前提条件下でのデータを統計的に処理して効果を示しただけの主張を無視するに限る。正論が判断するには、どうしても、効く理屈(仮説)が必要なのである。これがない限り、まともな議論や、反証発見に繋がらないからだ。
ただ、医学の場合、せっぱつまった要求に対応する必要があり、場合によっては、原則破りも致し方なかろうとの考え方もなきにしもあらずだが。

・・・そんな考え方に則り、「連濁」規則仮説を考えてみた。もちろん、手抜きで、素養を欠く素人論。

まず、知られていそうなことを列挙してみようか。

○和語は濁音が少ない。
 ・「ひらがな語(倭語)」は、大陸北部の言語群同様、濁音で始まることはない。
 ・濁音は大陸到来の漢字語と日本語化した西洋語彙に多く見られる。
 ・濁音は美しくないとの意識濃厚な時代があった。
 ・万葉集における濁音相当漢字(万葉仮名)使用例の数はそれほど多くなさそう。
 ・濁音表示文字の使用は比較的新しく、漢文読み下し技法から生まれたようで、峻別を必要とするほど濁音単語は多くなかった可能性が高い。
 ・濁音化ルールが手抜きであり、重視する気がないことを示していそう。例えば「し/ち [shi, ti/chi]」が、「じ/ぢ」になる訳だが、正確に伝えるための発音規則になっていない。地面の「地[ち]」は「じ」ではなく、「ぢ」だが、無視されている。
 ・接頭/接尾語的なものを外した和語に、濁音が複数含まれるものはないらしい。

○連濁発生の規則性が指摘されている点。
 ・前後部が重複する語。
 ・宗教的だったり、権威的な用語。
   (「〜+者」の一部)
 ・「〜+会社」。
 ・後部後が体言化動詞で前部語が連体形動詞。
 ・後部語が、漢語由来のサ行変格活用動詞。

○連濁禁止の規則性が指摘されている点。
 ・後部語が和語でない。
 ・擬音/擬態語(オノマトベ)。
 ・後部語に濁音が含まれている。
 ・二語が並列構造。
   (「と」あるいは「や」を介するフレーズ)
 ・後部語の意味が「人」。
 ・前部語の役割がフレーズ。
 ・後部語がすでに複合語化している場合。
 ・前部語に促音が含まれている場合。

○連濁の規則性が無いと指摘されている点。
 ・固有名詞。(典型は人名、地名の類)
 ・西洋語由来の言葉。

さあ、以上をどう見るか。

このなかでいたってわかり易い話がある。西洋語に関するルールだ。濁音がもともと多い言語だから、一部を濁音化すれば異なる単語と間違い易い。そんなことは、避けたい筈。これが根底に流れていると見れないこともない。
しかし、よく考えれば、日本語化させたいなら、そんなことを気にする必要があるとは思えない。
という事は、単語の認識に当たっては、これが外来語か和語かを判定することから始まっていることを意味してはいまいか。
つまり、この単語は「和語」なのか、「漢語」か、はたまた「西洋語」かと、考える訳である。連濁はそれに絡む技法に見える。
ただ、間違えてはこまるが、単語の由来に関係している分類ではなく、使う際の気分での仕訳という点。
「倭書」(ワショ)の発音にはなんとしても濁音を入れたくないのだが、「漢書」(カンジョ)となれば濁音化は必須条件なのである。「洋書」(ヨウショ)は、和語か漢語か西洋語かよくわからないが、どうでもよいのである。

つまり連濁ルールは以下のようなものとなる。
(1)和語ムードにしたいなら、連濁を避ける。
(2)漢語ムードにしたいなら、必ず連濁させる。
(3)西洋語と感じさせる言葉には、手を加えない。

例えば、こういうこと。
「山川」を「やまとかわ」と和語的に読みたいなら、「の」抜けの「やまかわ」。一方、漢語にしたかったら、音読みすればよいが、それができかねるから、「山河」[サンガ]を用いるしかない。そうすると、川の意味が少々違ってしまい気分悪し。工夫が必要となる。それが、「ヤマガワ」との発音に繋がったのでは。カワという和語を濁音化して漢語臭くするのである。和語的にしたいか、漢語的にしたいかで、連濁技法を用いるか決めているに過ぎない訳。

(「ひと味違う観点」の論文) 原口庄輔:「新「連濁」論の試み」 明海大学2000年


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