■■■ 2012.11.28 ■■■

   丸暗記用文法の役割は終わったのでは

学校文法は、強引に覚えさせるための手引きとしては、よくできていると思うが、それ以上のものではなさそう。
小生は、国語において、この手のやり方でルールを頭に叩き込む方式は、そろそろ止めにすべきだと考えている。もちろん、言語だから、ルールが合理的とは限らないし、矛盾や例外も多々あるだろうから、理想を追求するのは無理。しかし、覚えるのに便利そうなルールを作るのだけは避けて欲しいもの。学校文法とは、どう見てもその類。
表面的には習えばそれを使うことになるから、一見よさげだが、日本語独特の言葉の感受性を失っていくことでもあり、小さな副作用と見る訳にはいかないのではないか。できるだけ早く新文法に改定して欲しいものである。

と言っても、わかりにくいので、学校文法の欠点を2点あげておこう。

1つ目の問題は、細かな「詞」だらけな点。大きくくくらないと、日本語の特徴がわからなくなる。
要するに、日本語が文節型言語であることを、はっきり認識させる文法が必要ということ。○○詞ごとに、細かなルールを覚えさせすぎ。そのため、どうしても構文的な文章構造を別途頭に叩き込もうということになる。これでは日本語のセンスを失ってしまいかねまい。子供の俳句を読めばわかるが、名詞だけの場合もあるが、それでも情感は伝わってくるのである。それが日本語の驚くべき伝達力。文節毎に、何を意味しているか考える習慣ができているからこそなせる業。英語とは違うのである。
例えば、「私は本当は犬が好きなんだけど今は猫を飼っているのよ。」を文節に分けろといわれて、できない人はいないだろう。「ネ、」が入る箇所は、どういう訳か誰でもわかるのである。と言うことは、「ネ、」とは文節後置詞として認識されていることになる。
ところが、学校文法は、語彙を細かく定義してしまうから、英語のフレーズ的認識には向くかも知れぬが、日本語の文節把握には繋がることはなかろう。これはまずい。

2つ目の問題は、暗記の中心である「活用形」。
活用する「詞」を、いくつもに分けたが、同じプラットフォームで考えるようにしたいということで無理が生じている。その上、無理して、古文と現代文の整合性をとろうとするからおかしなことになっている。さらに、暗記し易いことを第一義においているから、分類はなにがなんだかさっぱりわからない。
てなことを言うと、ろくに勉強もしない無知な輩がなにを言うとなる。その指摘自体は図星。しかし、上記の見方も間違いなく大当たりなのだ。

丸暗記するしかないのだが、量が多く厄介ではあるが、覚え易いのは間違いない。先ずは、「ない、ます、「。」(言い切り)、とき、ば、「命令」」ときて、動詞五段活用だと、「かきくくけけ」である。
それが、「未然形、連用形、終止形、連体形、仮定形(古文では已然形)、命令形」に当たる訳である。

理系頭脳から見ればトンデモ分類であることは明らか。言ってみれば、こんなところか。・・・「深海で移動する生物、4足歩行生物、固着している生物、2足歩行生物、光合成で生き抜く生物、分断してもそれぞれ動いて生き抜ける生物」
「かきくくけけ」と五十音図の発想で考えることができるから、丸暗記はし易いが、どういう視点で分けられているのかは何もわからない。理屈など考えずに、ともかく使えるようにせよということ。
まあ、言語とはそんなものだからとやかく言う筋合いではないが、論理性が欠落している活用規則であるのは間違いない。
素人がちょっと書いて見るだけで、なにがなにやら状態に陥ること請け合い。

無知を気にとめず、間違い承知で、ちょっと書いてみようか。

○未然形
 ・純正【か】
   書かない。・・・否定
 ・上記と同じくナイがつくが「か」ではなく、非未然形の【け】
   書けない。・・・拒否/不能
 ・純正【こ】
   書こう。・・・誘い/意志
 ・「まだそうではない」とは視点が違う【か】
   書かれる。/書かれている。・・・受身
   書かせる。/書かさせる。/書かせている。・・・使役態勢
   書かされる。・・・受動態勢
 ・脱未然形[丁寧系の連用形]【き】
   書きましょう。・・・純正未然形の「書こう。」の丁寧表現
これを見て、未然形とはどういう概念なのか疑問が湧かないかネ。「ナイ」をつけても一義的に決まらないのに、どうして分類できるのかとか。意味についても、Aspectなの、Voiceなの、はたまたなんなの、ということにならないか。「書かされている」って、「まだそうではない」状態とも思えないし。そもそも、分類の最初に未然形を置くという発想が理解できない。氏名の「あいうえお」順のようなもので、覚えるのに便利という以上ではなかろう。

○連用形
 ・丁寧系【き】
   書きます。・・・「書こう。」の丁寧表現丁寧/自発
   書きました。・・・過去(完了)「書いた。」の丁寧表現
 ・【き、い】
   書いた。/書いて、・・・過去
   書きたい。・・・願望
   書きやすい。/書きがたい。・・・難易性判断
   書きながら、/書いてる。・・・持続
   書いてある。・・・対象[静態モノ]の状態
   書いている。・・・主語[動態モノ]の状態
   書いてもらう。・・・それ以外の状態[受益]
 ・複合動詞前半だが【き】
   書き取り・・・複合動詞というより一体として名詞化済み
 ・動詞・形容詞・形容動詞の前でなく、連体形的状況の【き】
   書きもの/書き方・・・一括した名詞なのか?
ここで、TenseやVoiceといった概念を持ち込んでいる理由はお察しがつくと思う。動詞の語尾変化こそが日本語の命そのものでは。そこがよく見えない分類は日本語の質を落とすことに繋がると思うのだが。

○終止形/連体形
 ・終止形の【く】
   書く。・・・「裸」
 ・連体形の【く】
   書く時/書く
 ・無理矢理省略と見なせば連体形の【く】
   書くだろう。・・・[書くことだろう。}
   書くまい。・・・[書くことはすまい。]
動詞以外の「詞」との共通プラットフォームということで、終止形/連体形を分けるのだろうが、活用は両者同じ。上記のように雑炊的にまとめておきながら、ここは分けるという必然性はない。
それに、終止形という概念も曖昧。文末という意味なら、命令形も当てはまるではないか。それに、この形、辞書は別だが、普段は滅多に使わないのでは。つまり、それは純粋透明の原型ということ。この原型にどのように語尾をつけると、どのような意味を伝えることができるかを示してくれるような文法にして欲しいもの。
「書くだろう。」(将来予測)を見ればわかるように、付加したい意味で語尾が決まり、それに合わせて活用が決まっている。その辺りがわかるような文法にしてもらわないと、表現能力が発揮できなくなってしまうのでは。動詞の活用語尾ばかり気にして肝心のことを忘れてはいまいか。学校文法を重視すれば、文章の形ばかり重視することになり、中味はどうでもよくなってしまうということ。

○仮定形(古文は已然形)
 ・【け】
   書けば、
   書けたら、・・・もしも、
 ・不詳の【け】
   書けない。/書けません。・・・拒否/不能
   書ける。/書けよう。・・・可能
   書けたり、・・・書いたり、とは別な意味で

今もってわからないのは、古文ではものごとを仮定して考えることがなかったということかね。仮定形は無いと習うのだから。実に不思議なのは、現代文の仮定形が、古文の已然形に該当するという根拠は、どうも動詞の後に繋がる単語が同じだからということらしい。そりゃ、両者は意味が違うのだから、同一といわれて納得できる人がいる訳がないから、まあ、それならそうだろうとなる。
と言うことは、動詞の語尾に繋がる単語で、意味や活用が決まるのだというルールを適用していることになる。それなら、そうしたらよかろう。動詞の活用ありきでなく、先ずは動詞に繋がる単語の整理だろう。
ここをしっかりまとめてくれないから、学校文法は単なる暗記ものに映るのである。といっても、おそらく、それは簡単な仕事ではないのだろう。
だけど、整理の糸口ははっきりしている。それは、「場」とそこにおける自分の立場を意識した表現になってしまうという、日本語の特質を考えた分類に徹すれば、見える筈である。Tense、Voice、Aspect、・・・を英語的に分類すると、こうした観点はゼロだから混乱を招くだけ。例えば、過去にしても、自分の経験過去と、他人の経験過去というか伝聞情報は、違うものであるに違いないのである。

○命令形
 ・【け】
   書け。/書けよ。
 ・連用形の命令なのだろうか、【き】
   書きなさい。
「書きなさい」は、「書け」の丁寧形なのだろうか。さっぱりわからん。

と言うことで、以上素人論。間違いもあるに違いなく、こんな主張を頭から信じないように。


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