■■■ 2012.11.29 ■■■

   日本語文法には西田哲学が不可欠かも

訳のわからぬタイトルだが、先ずは末梢的な話から始めたい。よく聞く話の確認にすぎないが、助詞の「が」と「は」の違い。

例で説明しておこう。
「弟は、実家に住んでいる。」はよく耳にする言葉だと思う。動詞から判断すれば、「弟」が主語である。それなら、「は」の代わりに、動詞の主語を示す、主格の助詞「が」を用いることができるだろうか。すぐにおわかりになると思うが、この判断が結構厄介なのである。
「弟が、実家に住んでいる。」は確かにありえる文章だが、意味が違ってしまうからだ。この場合は、私の故郷こと、実家に住んでいるのは誰かといえば、弟なんだよ、と言う文章。もともとの「弟は」だと、弟はどこに住んでいるかといえば、実家なんだよ、となる。どちらだって、内容は変わらないじゃないかと感じる人は日本語感覚を失ってしまったことを意味する。こうした表現の違いを重視することこそが日本語文法の根幹だからである。

もう少しゴタゴタしそうな例も取り上げてみよう。「犬は、可愛い。」で、同じように、「は→が」を試みるとどうなるでああろうか。「犬が、可愛い。」も言えないことはないが稀なのでは。「色々な動物の縫い包みがあるけど、どれがお好き?」と訊かれた時は、言うかも。つまり、「私は、犬が(可愛いから、)好きだ。」と応じた訳である。この文章で、主語の私に付く助詞を「は→が」にすると「が」が重複する。そこで、動詞の目的語を示すため、「犬が」の「が」を対格の助詞「を」に代えたくなる。そうすると、「私が犬を好きだ。」となってしまい、どうもヘンテコ。「犬が好きな人とは、実は私なんですよ」といった意味になってしまう。

たったこれだけの例で、日本語をどう見るかを強引に語るのは気が引けるが、素人論なので、そこはご勘弁いただきたい。

日本語は、情緒の交流を重んじている。この理解が出発点。
そうなると、会話を成立させるためには、まず最初に「場」が設定される必要がある。どういう状況にあるか、話し手と聞き手が認識を一致させながら、情報を交換するということ。従って、無味乾燥な「主語+動詞」構造が文章の骨格になる筈がないのである。基本は、あくまでも伝えたい「核となる語」であり、それに、話し手の見方を示す付加語を続けるだけ。言うまでもないが、「核となる語」は動詞になることが多いが、意味がある語彙ならなんでもよい。そして、「付加語」とは、その後に並ぶ助詞や助動詞。この文末で、当該「場」における話し手の気分すべてが表現される仕掛け。実にシンプルな文法なのだ。
当然ながら、動詞だけでは意味がわからない場合が多く、説明の語彙が必要となるが、それは動詞の前に並ぶ。その際、語彙の末尾に助詞をつける。助詞の数はたいしたものではないから、簡単に覚えることができるが、選び方についての明示的ルールを教えてもらえないから、上記の「が」と「は」のような問題が発生する。しかし、母国語としていれば、なんとなく理解しているもの。・・・当該動詞の意味と話し手の「場」を考え、その語彙の立ち位地を決め、それを示す助詞を選べばよいのである。わかりにくい説明だが、以上の要点をまとめると、次ぎのようになろう。
 ・文末の動詞が言いたいことの「核」である。
 ・この動詞の主語に「主格」用助詞をつける習慣はない。
 ・この動詞に続く「詞」で、文章作成者の「場」の見方を表現する。
 ・動詞に不可欠な説明語彙には、「場」の「位置」を示す助詞が付く。

ただ、西田哲学の「場」の概念を全く知らないと、上記の説明はなにがなにやらかも。そういうことで、ヘンテコなタイトルになっているのである。(ある意味、日本語は哲学的と言うことでもある。)
それはそうとして、「場」といえば、場所的感覚と考える方も少なくないだろう。それなら、その領域で考えてもかまわない。すぐに、日本語の特質が見えてくる筈である。

例で考えてみよう。
「二階にお上がり下さい。」は普通に使われている文章。どうして、「二階へお上がり下さい。」と単純に方向を示すような言い方をしないのか、考えてみればすぐわかる筈。そもそも、「に」は方向を示しているとは思えないからである。「お父さんは?」と尋ねられたら、「二階に居ます。」と言うのだから。
コレ、素人にしてみれば、なんら難しい話ではなく、当たり前のこと。話し手が考えている「場」では、座標軸の原点が「二階」に設定されているに過ぎない。
ここで重要なのは、どこが原点かの共通認識ができている点。情緒的言語での意思疎通が上手くいく大前提である。例えば、「天国へ行く。」と「へ」を用いる言い回しは特殊で、普通は「に」を用いる。「天国に召される。」と言う。原点を自分達に置く訳にはいかないと考えるから。個人的な買い物で出かけることを家族に伝える時は、「デパートへ行ってくるヨ。」と声を掛けるもの。家庭の代表として行くのではないなら、「に」にはしない。従って、行き先が会社だったりすると、どちらになるかは微妙なところ。学校文法は、こうした表現のニュアンスを消し去るための理屈と言えなくもない。もっとも、その強制的叩き込みにもかかわらず、こうした感覚はまだ残っている。いつまで持続可能かはなんとも言えぬが。
それはともかく、ここで言う座標軸とは、物理的なものではない。それをご説明しておこうか。
「コレ、彼からもらったんだ。」は、話している二人に座標軸の原点がある。しかし、「彼」を意識すると原点がそちらに移動する。そうなると、「彼にもらったんだ。」との表現に変わる訳だ。もちろん、「彼にあげたんだ。」といった使い方もできる。

「彼」とはヒトだが、「場」の概念では、そこでの位置付けだから場所でもある。
これを、学校文法はどのように解釈するのかは忘却のかなたであるが、おそらく細かく定義していくのだろう。もしそうだとすれば、実に不毛。探せば、他にも様々な言い回しがあるに違いないからだ。
そんな例としては、「部下に小言を言った。」という文章が手頃。「部下に会った。」も並べると面白い。欧米文法の発想なら差し詰めSVOOやSVO形だから、「に」は、Oを示す対格の助詞とされるのだろうか。はたして、それにどれだけの意味があるものだろうか。ちなみに、「に→と」変換すると面白い。「部下と小言を言った。」ではまずかろう。一緒にという意味での「と」として使いたいなら通用しそうな文章ではあるが。しかし、「部下に会った。」は「部下と会った。」なら問題はないのである。もちろん、ニュアンスは違うのだが、おそらくそれを感じる人は少ない。「に」を使って、「部下」に座標軸の原点があることを表現しても、聴いている側がたいして気に留めないからだ。

要するに、日本語は、それぞれの動詞に応じた「場」の設定の仕方があり、その環境下で「位置」を的確に表現できる助詞を選んでいるということ。そんなことは、自分の胸に手を当てて考えればわかること。それを無理矢理忘れて、英語的な文法で解釈しようとするのだから相当な無理があると言わざるを得まい。

と言うことで、素人が出した結論。・・・素直に文法を作りたいなら、「場」の概念を日本語文法に持ち込む必要がある。


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