■■■ 2012.12.5 ■■■

   日本語に時制は無いのでは

日本語には、Tense(時制)があるとされている。そして、Aspectである進行形や完了的表現も存在していると考えるべきらしい。それでよいのか、素人なりに考えてみた。

時間の流れを考えながら「書く」を活用させるとこんな感じか。・・・
○単純現在とされる基本表現
   私は、毎日、日記を書く。
○過去的表現
   昨日は、夜遅く、書いた。
○完了的表現
   抜けていた部分は、たった今、書き終えた。
   (やっと、書いた。/書けた。)
○現在進行中のことについての表現
   今日の分は、早めだが、今、書いている。
○これから先のお話
   さぼりたくはないので、明日も、書かねば。
   できれば、寝る直前に、書きたい。
   帰りが遅いので、真夜中に、書くだろう。
   予定が早まれば、その前に、書ける。
   もし駄目なら、翌朝に、書こう。
○「書く。」は、未来のようでもある。
   今日書き忘れたので、明日、日記を書く
   (書くつもり。)
○「書いた。」を、お勧め言葉や命令口調とも解釈できそう。
   さあ、早く書いた、書いた。
   (早く書け。

学校文法でこれらをどのように習ったのかは、すでの忘却のかなただが、上記のように並べて書いていると、英文法の真似をしたTenseやAspect概念では整理しにくそう。
なにせ、未来の話になると、動詞の活用語尾は何でもあり。こうなると、Aspect概念と紛らわしい「未然形」という見方もどういう意味かよくわからず。上記最後の文章など、一体どう説明されていることやら。

こうして書いてみると、ゴチャゴチャした感じがするが、そんな不合理な文法を押し付けられている結果とも言えそう。上記のように「書く」という動詞で色々並べて見るという発想自体がヘンテコ。動詞活用ばかりに注目するからそういうことになるのである。と言うか、主語-述語構造を第一義的に考えるから動詞から文末を見てしまうのである。これが間違いの元。
誰でもすぐわかるのは、「書き終えた。」は、「書く」という動詞の文末表現ではなく、「終わる」という動詞の文末表現。当たり前の話。しかし、この動詞に注目することはない。肝心要の動詞は「書く」と思い込んでしまうからだ。
こうした認識なくしては、文末構造を冷静に眺めることができない。ストレートに言えば、文末を解明する文法なくしては、日本語の真髄に迫れないと考えているだけのこと。ココの表現技法を教えないで、すぐに、助詞、助動詞といった細かな単語レベルで使い方を暗記させようとするから、教わる方はたまったものではない。なんとかして欲しいもの。

と言ったところで、実感は湧かないだろうから、上記のTenseで考えてみよう。すぐにわかるのは、未来系の基本文が無い点。その代わり、意志や推定、はたまた仮定など様々な形の表現が登場してくる。一見、英語のWillやShallと似た用法と錯覚しかねないのは確か。しかし、繰り返すが、日本語には単純な未来形は無いのだ。両者には、根本的な考え方の相違がある訳。
どうして違いが出るかと言えば、日本語は「場」を設定し、そこで情緒を伝え合うことを第一義に置いているから。この考え方を土台に置けば、どのような文章構造になっているかは、素人でも見えてくる。そして、丸暗記型学校文法が反日本語的思想に彩られていることもわかってくる。

ゴタクを並べたが、要は、日本語の文章の末尾にくるのは、Modarity(話し手の態度表明)ということ。従って、文末動詞の語尾につく単語が、Mood(叙述法)を規定しているのである。ズブの素人が、ウエブリソースで得た知識で書いているだけだから、一知半解の用語を使ったりしていて、えらくわかりずらいが、簡単に言えば文末で話し手の気分を表現しているというにすぎない。Tense(時制)とは、絶対的な時の流れでどの時点を表すかという客観的な表現に近く、気分という主観的な表現とは相容れない。従って、日本語に西洋文法的な時制概念がある筈はない。

つまり、「過去」という概念は無く、自分が体験して知っているコトか、他人から聞いてしっているコトか、はたまた今自分がかかわっているがよくわからないコトか、等々を、文末で示しているということ。当然ながら、未来の話はすべて推定ということになり、どんな推定をしているか語ることになる。自分の意思でそうしたいというのもあるし、なんとなく流れで自分も動くということもあろう。この表現の細かさは比類なきもの。それが日本語。
そのため、助詞や助動詞を習うと、余りの多様さで頭に入らなくなる訳。それも仕方ないかで終わるのである。これではこまる。役に立たない文法なら抜本的に変えなければ。

何から始めればよいかは、実は自明。すでに述べたように、「書き終えた。」は「書き」が文末の動詞ではないからお分かりだと思うが、文末動詞を正確に定義し、それに付属するModarity部分と明確に分けること。これなくしては、日本語の伝統は受け継ぐことは無理。
そんなことすでにできていると思うなかれ。形態的には、Modarity部分は動詞に繋がるから付属語と見なしがちだが、日本語ではここは別な「文章」の役割に近い。そう考えて、両者を分けない限り、理解は一歩も進まない。
例えば、「真夜中に、書くだろう。」は仮想的に2つの文章からなっていると見る必要があるということ。
  「真夜中に、書く」ようなコトを、
   「自分の立場で考えてみれば」「実現可能性」「あり」
「夜遅く、書いた」も同じように考えるだけのこと。
  「夜遅く、書く」ようなコトだが、
   「自分の立場で考えてみれば」「体験」「あり」
従って、Modarity部分が欠落している「書く。」という表現は、普通は使わない。(例外は、中立的表現が必要な時。)もちろん、日本語の特徴でもあり、自明なら、無くてもよい。でも、なんらかの付属の言葉を付けたくなるもの。たったの一音で済むからだ。例えば、「書くゾ。」で十分。これで2つの文章表現をしているようなものだから、日本語の凄さがわかろうというもの。
  「書く」ようなコトだが、
   「自分の立場で考えてみれば」「(強い)実現意志」「あり」
「書く決意。」と宣言しているようなもの。「ゾ」を「ネ」にすればどんな気分になるかは説明も要もなかろう。こんなことは分かりきった話にもかかわらず、「ゾ」が何詞でどんな意味で使われるかが羅列されている「文法」を強要される。常識人なら、Modarityの表現にはどんなものがあるかの検討こそが、勉強の主軸。宣言したいなら、文末を名詞にする方が「決まる」といった表現方法を文法の勉強を通じて知ることこそが重要なのである。


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