■■■ 2012.12.8 ■■■

   在る居る動詞の理解は極めて重要

「居る」と「在る」は、日本語の動詞分類の根幹であるとの、以下が骨子の素人話をした。
  (意志の動詞) 「いる。」・・・生物の表現。
  (モノの動詞) 「ある。」・・・無生物の表現。
何故、学校で教えられる文法では、この点を重要視しないかだが、小生は印欧語文法に従っているからだと見る。ただ、普通は、そうは感じないものらしい。ウエブリソーシスではそんな主張をみかけないから。
と言うことで、どうして小生がそう感じたか書いておこう。
両者とも目的語をとれないから明らかに自動詞。しかるに、教えたい文法では、分類の基本は他動詞と自動詞。自動詞を分類するような方法論は認め難かろう。しかし、それこそが日本語の特質。

実は、このことを、以下の本を読んでいて、強く意識させられたのである。・・・東京帝国大学博言学科名誉教授が1895年に上梓したエッセイ的文法書である。もちろん、翻訳版。
Basil Hall Chamberlain:「Essay in Aid of a Grammar and Dictionary of the Lunchuan Language」

そこに、「原形」の動詞から生まれたとされる自動詞と他動詞が並んで記載されている。
  原形  ---> 自動詞  他動詞
  重ぬ。 ---> 重なる。 重ねる。
  助く。 ---> 助かる。 助ける。
  留む。 ---> 留まる。 留める。
別にどうということもない羅列だが、規則はこうなっている。
  自動詞は接辞として「アル(aru)」を付ける。
  他動詞は接辞として「エル(eru)」を付ける。
ド素人だと、書き方が全く違ってくる。
  自動詞とは、日本語の「在る」を組み込んだ動詞のこと。
  他動詞とは、日本語の「居る」を組み込んだ動詞のこと。
後者は自明ではないが、「エル(eru)」とは「a」+「イル(iu)」と見た訳である。

チェンバレン先生の見方は、左から右への変化。左が古語で、右が現代語の言葉だから、常識的解釈。しかし、ド素人たる小生はこの考え方に疑問を感じる。どうしても、右側の「ru動詞」から「存在の基幹動詞部分」を取り去ったものが左側と見てしまうからだ。その理由は単純。「在る」(モノ)と「居る」(意志)の峻別感覚は極めて原初的と見ているから。後付けでそんな気分が生まれるとしたら、こんなところでは。
 ・新語(「在る動詞」も「ア居る動詞」も無い。)
 ・文字無き時代のルールへの回帰現象

ついでながら、チェンバレン先生が指摘している日本語の特質はドンピシャ。
  ・日本語は好んで接尾語を重ねる。
    必要以上にeruを加えるという結果を招いている。
  ・受動動詞にeru(またはuru)、即ち、「得る」を用いている。
日本語の受身は助動詞「れる」「られる」を用いる。ただ、「ラ抜き言葉」問題で知られているように、「られる」には、可能あるいは自発とされる使い方があるとされている。印欧文法で考えればそうだろうが、日本語の文章とはそんなものではない。文末で話し手(書き手)の情緒すべてを一気に伝えるのだから、SVO構文における能動態や、その受動態などという概念は全く通用しないと言って間違いなかろう。
整理しておこうか。
(能動態とされる文章)
    [主語A] が [目的語B] を [動詞語幹] [活用辞] [末尾語群] 。
  ・目的語は無くてもかまわない。
  ・主語省略も可能。
  ・主語と目的語の順番は逆でもよい。
(受動態化された文章)
    [B] が [A] に [動詞語幹] [活用辞] られ [末尾語群] 。
  ・確かに、主語はAからBに変わった。
  ・同時にBもAに変わっただけ。構造的にほとんど同じ。
  ・格助詞の「を」を「に」する必要がある。

実は、これでは日本語文章の特徴として不十分。元の能動態の主語には、当然ながら格助詞「が」が付く。しかし、これを受動態表現にした時は、「が」でなく、「は」が適切なのである。
この「は」だが、チェンバレン先生の指摘によれば、琉球語文法では語形変化に組み込まれているそうだ。その語形変化とは、文章の流れから、独立(孤立形:Isolation)させてしまう機能のこと。「With regard to」化である。日琉共通の名詞「やま(山)」を例にとれは、日本語なら「山-は」だが、琉球語の孤立形では「やまー」。「-は」の子音wが抜け、母音がaaと連続してしまうから、長母音化しただけのこと。

どうして、受動態の話に、余り知られていない孤立形という無関係な話を持ち出すのかおわかりだろうか。わざわざ受動態にするのは、目的語を主語にしてそこを強調したいから。これは、印欧語文法の「文頭にSありき」だから可能。ところが、日本語は文末で情緒を一気に表現する言語だから、その部分で受動態にしたところで、印欧語と同様な効果が生まれる訳がない。もしも、目的語を主語化して目立たせたいと考えるなら、孤立形にするしかないのである。
こうした表現上の機微が可能な言語であることを理解できなくなっているとしたら、至極残念な話である。
「ラ抜き言葉」で騒ぐ前に、日本語の文法の本質をご自分でじっくり考えてみることをお勧めしたい。

(参考書) バジル・ホール・チェンバレン(山口 栄鉄 編訳/解説):「琉球語の文法と辞典―日琉語比較の試み」 琉球新報社 2005年


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