■■■ 2012.12.19 ■■■ 「象の鼻は長い」 「象は鼻が長い」(1960年)の著作で知られる、三上章(1903-1971)博士が提起した文法は、「体系化されていない」として無視され続けているらしい。と言っても、おそらく、所謂外人用日本語教育では遺憾なく活用されていそう。それが、現実の言葉を習得する一番の早道なのは明らかだから。 それにしても、子供の頭に形式文法を徹底的に叩き込んで、国内統一を図って何を実現したいのだろうか。凡人には、理解し難い所作。 ともかく、欧米語や中国語のSV構造が骨格となっている文法を使いたいらしい。 そんなものに実用性が無いことは素人でもわかるにもかかわらず。 構文の典型的説明はたいていはこんなところでは。・・・ 「妻が 犬に 餌を あげた。」 言うまでもなく、この文章はSVOOに該当するとの説明がなされる訳だ。外人用には良いが、そんな発想で日本人が文章を作ることなどおよそ考えにくいが、ゴリ押しされるわけである。もちろん助詞を通して。 論理は単純。以下の文章だと、なにがなんだかわかるまいと切り込まれるのである。 「A( ) B( ) C( ) あげた。」 従って、格助詞の、「が(主語)」、「を(直接目的語)」、「に(間接目的語)」を入れる必要があるというのだ。 ふーん、そんなものかね。 「妻」「犬」「餌」とくれば、その場を形成している状況がぼんやりとわかるのでは。それに加えて、「あげる」なら、格助詞などなくても状況の想像がつくというもの。そこら辺りが日本語の特徴だと思うのだが。ついでながら、「今朝」という一語も追加しておこうか。この場合、推奨の助詞は「は」。もっとも、無ければ無いで、それなりの意味になる。こうした表現方法こそが、日本語らしさそのものと思うが如何。 だいたい、「は」と「が」にしてから、主格もなにもなかろう。ド素人が考えても、様々な文章が即座に頭に浮かぶからだ。 象は 鼻が 長い。 (ミミズには 鼻が 無い。) 彼は 鼻が 自慢だ。 彼は 鼻が 特徴だ。 冬は 鼻が 痛い。 腐った物は 鼻が 見分ける。 この先は、同列に扱えそうにはないが、・・・ そこまでは 鼻が 働かない。 (それを聞いて、)私は 鼻が 高い。 おそらく、専門家が探せばもっと色々な用法があろう。 そんな状態で、主格だ、対格だ、と細かく分析してはたしてどれだけ意味があるのか大いに疑問。日本語の特質を考えれば、「A( ) B( ) 長い。」の穴埋めではなく、「象( ) 鼻( ) 長い。」に、どのような助詞を入れると、どんなニュアンスとして伝わるのかを学ぶことに精を出して欲しいもの。それは「格」の用法暗記勉強とは似ても似つかぬもの。 「象の鼻は 長い。 v.s. 象は、鼻が 長い。」という主語問題はSVO文法に拘らないなら実に瑣末なことでしかない。重要なのは、「象とは、鼻が長い動物なんだ。」とか、「象なら、鼻が長いのだが。」といったたいして変わらない文章でも、ニュアンスが大きく変わることを理解すること。その上で、「象は、鼻が長い。」が言いたいことを推定する力を身につけることが肝心。これこそが、日本の伝統的意思疎通の核でもあるからだ。 その観点では、圧巻はなんといっても、格助詞「の」ではなかろうか。(格助詞以外にも、準体助詞、並立助詞、終助詞と位置づけされている表現があるそうだ。) 学校文法でどう教わるのか知らないが、「所有・所属」を意味する用法から始まって、色々と懇切丁寧に説明することになるのでは。そんなことをされたのでは、教わる方はたまったものではなかろう。 ド素人でも、以下のように、幾らでも違う種類の表現例をあげることができる。これでは、とても分類する気にもなれぬ。 ○一般的な名詞の場合 息子の (所有する)本 息子の (所属する)学校 息子の (身体/行為/所有物における)特徴 息子の嫁 (所有物?) 息子の主張 (所属物?) 息子の(分担している)役割 息子の場合 [様々な解釈ができそう] 息子の(意図的行為で創出された)作品 息子(という、動作の主体)の帰宅 息子の(行為で発生した)ミス 息子の尻拭い [息子の尻、尻拭い、で見方が変わるが] 息子の太郎 [両者は同一人物] 太郎の馬鹿! [慣用句か] 自動車(に関する内容)の本 夏目漱石(著作)の本 自動車(という、対象物)の展示場 自動車の教習場[運転が省略されている可能性も] 自動車(の一部分)の窓 自動車(に使うため)のタイヤ 自動車(の形態特徴の一部)の色 自動車(に似せた形)の模型 自動車(が発揮できる性能として)のスピード 自動車の運転手(意志的行為の主体) 自動車(を利用されている方)の方々 自動車の発進(モノの動きの主体) 自動車事故(で発生したこと)の後処理 ○数や時刻を表現する名詞の場合 五百万円(という設定数値)の自動車 二台(という数量)の自動車 最初の(順位である)自動車 明治時代(という時点で)の自動車 五メートル(という尺度)の長さ 朝七時(という時点で挙行)の出発 ○状態や性質を表現する名詞の場合 緑[色]の(状態の)リポン 幅広の(形態の)リボン 絹の(材料で作った)リボン こんな分析的見方ではなく、先ずは「の」の概念と言うか、イメージを膨らませることを出発点にすべきだろう。その観点では、佐々木信綱の有名な歌は素晴らしい題材だと思う。 行く秋の 大和の国の 薬師寺の 塔の上なる ひとひらの雲 この歌の用例も上記に追加すべきかナ。 大和の(名前がついている)国 薬師寺の(場所にある)塔 [所属と解釈されてはこまるゼ] 「の」の連発で、「場」の言語表現の素晴らしさを見せ付けてくれた訳。ズーム・イン技法による、映像イメージ創作と言って間違いなかろう。 このような多様な用法展開を見せる「の」だが、常識を働かせれば、使うのが難しいということはない。 先ず、構造的には、「[前]名詞+の+[後]名詞」。実に分かり易い。本来は、これが分かるような文法上の名称が望ましいと思うが、たいした問題ではない。 これさえおさえれば、文法など教えて貰う必要などない。前後の名詞は互いに深く関係しており、前者で後者を特定しているにすぎないからだ。どういう関係かは、普通は自明。だからこそ使うのである。すぐにわからない場合は違う表現にするだけのこと。当たり前の話。 従って、他の言い方も可能なのに、わざわざ、「の」を使った表現にすれば、なんらかのニュアンスを伝えたいことがわかるという仕組みとも言える。 例えば、「一杯のかけ蕎麦」とは言うが、滅多なことでは、「二杯のかけ蕎麦」という言い方はしないもの。「かけ蕎麦一杯」ではなく、「の」を使った数量表現をしたい理由は、「一杯」に「たったのこれだけの」という気持ちを強く籠めたいから。情緒が通じる相手なら、そんな言葉をつけないほど気持ちが伝わるもの。「場」の言語の鉄則でもあるし、それこそが日本語表現の醍醐味そのもの。 当たり前だが、互いの関係は、「場」によって千差万別である。その「関係」を読み取れる人の間でのコミュニケーションを前提としている言語ということ。 もちろん、他の「の」の用法もある。その場合は、繋がる単語は名詞ではない。 鼻の長いのがやって来た。 息子のは高級品なんだ。 自動車で来たのを知らなかった。 まあ、ここでも「が」との違いを考えさせれることになる訳である。残念ながら、用法上のニュアンスの違いを理解できなくなりつつあるようだが。そう言われても納得できない方は、以下の違いがわかるかね。 秋風吹く・・・ 秋の風が吹く・・・ 秋風の吹く・・・ 素人の訳のわからぬ話はここら辺りでお開き。 (ウエブリソーシス) 尾谷昌則:格助詞 「の」 の認知プロセス 一彼女の飼っている猫は茜です一 言語科学論集 1998 [上記の孫引き:「日本文法大辞典」 明治書院 1971] ・準体助詞 これは僕のだ 駅から遠いのが難点だわ よほどうれしかったのだろう ・並立助詞 どうのこうのと文句ばかり言う ・終助詞 これは田中さんにもらったの (断定) これは田中さんにもらったの? (疑問) あなたは勉強だけしていればいいの (命令) 「超日本語大研究」へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2012 RandDManagement.com |