■■■ 2012.12.31 ■■■

   素人が考える日本語の利点

○現実の日本語習得状況
日本語の特徴は、「場」に合わせた、情緒的なコミュニケーションを重視する点にある。少なくとも、これから先の3世代の範囲では、これは変わるまい。なんとなれば、幼稚園でのお話教育や、母親による絵本読みのやり方が変わる兆候が認められないから。6歳頃で、脳の量的急速成長は止まると考えられており、幼稚園から小学一年生辺りで、言葉の使い方の土台が出来上がってしまうと考えれば、今の状況が変わる可能性は低かろう。
言い換えれば、小学校の義務教育で「非情緒」型と言えそうな形式文法を叩き込んではいるものの、大きな影響を与えるまでには至っていないということ。いくら文法原則を学ばされても、日々の談話で重要視されるのは情緒表現だから、学校文法は単なる暗記もの以上ではなかろう。ただ、標準語を話す場面が増えるため、方言を忘れさせる効果は絶大。
およそ、12歳までで、脳内における、神経伝達構造は完成してしまうらしいから、小学生時代の社会生活で情緒表現が完成してしまうということかも。そのあとは、知識量を増やし、それをきちんと整理して積み上げていくだけ。

○学校文法と現実とのズレ
従って、知恵を生み出しやすい文法教育が行われるとよいのだが、そうなってはいないようだ。現実の言葉に合わせた文法は、習わなくても身についており、そうなると、形式的な文法教育は何のために行っているのか、考えた方がよいのでは。
例えば、こういうこと。
日本語の文章とは、どう見ても、名詞だらけの構文。最後に動詞が来て、全体の情緒を示す語を動詞に付加。英語や中国語のような、「主語+動詞」の柔軟性なき構造とは全く違う。
これを理解することが重要な筈だが、現実の学校文法は体言と用言という、すぐに理解しがたい概念から入ったりする。日本語には整然とした文法が存在することを知らしめたい気持ちはわからないでもないが、そろそろ考え直すべきでは。
動詞活用にしても、実践的なものに改めて欲しいもの。説明してもらえるなら、先ずは、「動詞+1文字。」構文で。・・・これほど簡単に様々な状況を表現できる言語は滅多にないことがすぐにわかる訳だし。
  書いテ。
  書いタ。 書いタ?
  書くネ。 書くヨ。 書くゾ。 書くヨ。
  書くカ? 書くノ?
  書かズ。
  書けヨ。 書けル? 書けタ?
この手が嫌われるのは、情緒表現が最後の一文字あるいは数文字で決まることを、秩序だって説明することが難しいからに他ならない。例えば、「雨になるワ。」と「雨になるデ。」は岡山ではニュアンスがかなり違うという。しかし、それこそが日本語の特性ではなかろうか。そしてもう一点。それは、方言の一大特徴がこの部分に現れるからだ。ここを学べば、必然的に方言も検討対象にあがってしまい、標準語化進展を妨げることになる。それを避けたい人はおそらく多かろう。・・・実際、念押しに使う「-ヨ」も、山梨では「-シ」、静岡では「-ニ」、京都では「-エ」、和歌山では「-ラ」とバラバラ。実は、だからこそ、活用形の本質というか、そのルールが一番よくわかる題材なのである。
ここから発展させて、文章にして学べばわかり易くなるのでは。
  書けない。 書かない。 書こうとしない。
  書くつもり。 書きたい。 書こうと思う。
  書いたら、・・・。 書けたら、・・・。
そうそう、「連体形」という考え方もしっくりこないものがある。素人にも即座にわかる概念にして欲しいものである。
  書き手 書き物
  書く事 書く「の」は、・・・

動詞の活用もさることながら、主語の存在を必要以上に強調するのもどうかと思う。「SVOO」に合わせた解説に、果たして、どれだけ意味があるのかはなはだ疑問。頭が混乱するだけでは。
<主語「が」 間接目的語「に」 直接目的語「を」 動詞活用-末尾語(助詞や助動詞)。>
  息子に 本を 渡した。
  黒板に 字を 書いた。
  息子に 字を 書かせた。
上記の文章の違いがわかる説明があってしかるべきだと思うが。「場」の言語では、先ずは名詞がバラバラと存在する。それだけで状況がわかる訳で、互いの関係が自明でない場合は、相互関係がわかり易くなるように名詞の末尾に助詞をつけるのがルールなのでは。従って、「を」が動作対象の目的語を示すという説明も、どんなものか。
「息子に 会う。」と言うからだ。まさか、「息子を 会う。」と言う人はいまい。この「に」は、「渋谷に 行く。」と同じ用法なのでは。「食事に しよう。」と同じことで、もちろん、「食事を しよう。」でもよいのである。微妙に意味が違ってくる訳である。そんなことは、面倒な文法を教えてもらわない方がかえってよくわかるのでは。

そうそう、言うまでもないが、主語は自明なら表現しない方がよい。「妻」だったりすれば自明ではないから、主語がでてくる。しかし、「妻も」と加えても、主語はでてこない。「私が 息子に会う。」という言い回しをされたりすれば、主語をわざわざ言わざるを得ないなんらかの理由があることを示唆していると考えるのが普通では。

これが日本語のルール。一つの文章だけで、文法を議論する訳にはいかないのである。その文章の前に、場の説明文章があったりすれば、かなりの内容が省略されてしまうからである。話し手が話題としているいる状況を想像することで、互いの情緒交流のレベルを高めている訳であり、文章構造の柔軟性こそが命。欧米の構文文法とは考え方が違う。例えば、以下の文章を英語型の構文で検討してもたいした意味はなかろう。省略部分を一義的に補うことができないからである。
  私の朝は早い。
  迎えの車が来るのが6時前。
  従って、食事抜き。

そんな言語だから、主語には助詞「が」で、目的語は「を」だといった具合に、無理に西洋文法風に当てはめても意味は薄い。例えば、「誰が 好き?」というのが普通。「が」が主語どころか、目的語についている。「誰を 好き?」も使うが、この手の用法を知らない人はいまい。それに対して、"この「が」は又別な助詞で、・・・"といったゴチャゴチャ説明は暗記量を増やす以外のなにものでもなかろう。

○日本語の特徴
ゴタクを並べているが、実は、このような類稀なる日本語の特徴は、優秀な人材を育てる上では利点として働く。そこを認識して、上手く利用するべきでは。こんなことを、ど素人が言うべきことではないが、せっかくの利点を殺すような、西洋文法的な見方を強要するのはそろそろお止めになった方がよいと思うのだが。

以下、欧米語と比べ、日本語の特徴で思いつくものをざっと並べてみた。当たっているかはなんとも言えないが、ご参考まで。
  ・文意を末尾の単語と語尾に付ける用語で伝える仕組み。
    -文末単語から、他の単語の相互関係を推定する必要がある。
    -語尾に話し手の認識状況と意向が示されている。
  ・名詞中心の言葉である。
    -名詞を覚えるだけで、会話が成り立つ。
     (助詞/助動詞が欠落しても、想像でなんとかなる。)
    -単に構文上必要なだけの、無意味な名詞は存在しない。
    -固有名詞を好み、人称代名詞は余り使わない。
    -類推による単語概念の拡張が自由自在である。
    -単語の連結等による新語創出が簡単にできる。
    -名詞と名詞の連結は柔軟に行える。(「の」)
    -名詞を形容詞等で細かく表現することが多い。
    -名詞の動詞化、動詞の名詞化が即座にできる。
  ・状況叙述型の言語である。
    -文節単位で情報を集め、総合判断で内容を理解する。
    -シーン(イメージ)の共有で会話が進む。
    -同音異義語が多く、シーンを想像する必要がある。
    -直接的な意志表示を避け、状況説明を重視する。
     (命令調は滅多に使わない。)
    -微妙な表現の違いに気付く必要がある。

○日本語話者のスキルとは
これらを眺めると、日本語話者は集団主義者にはなりにくい感じがする。「場」を想定し、関係者の相互関係を想いながら、意思疎通を図るから、小集団では深いコミュニケーションを実現できる。それを集団主義と呼ぶならその通りだが、それを社会全体に拡大するのは難しかろう。微妙な情緒表現で他の人との違いを示すスキルを磨いているのだから、一枚岩組織にはなりにくい筈だし。どちらかといえば、漢字という文字で統一されている中国語話者の方が、集団主義者になり易いと見るべきでは。
ともあれ、勝手知ったる仲間での、組織的な議論だと、とんでもなく細かなものになること請け合い。ただ、それは質の高さに直結するとは限らない。閉鎖的だとマインドセットされがちだからだ。狭い枠内の議論で終始しかねない上に、論理的整理無しの情緒的合意での決着を認めると、誤った結論を出しかねないからだ。
ただ、このような狭い視野と裏腹に、注目すべき利点が存在する点を忘れるべきではなかろう。比類なき、研ぎ澄まされた観察眼が備わっている可能性はかなり高い。言語の特性上、事物観察に向いているからだ。しかも、新名詞創出能力が高いということは、モノを弄くり回し、その印象を新しいコンセプトとして伝える潜在能力が桁外れに高いことを意味していそう。
こうした特徴を利用しない手はなかろう。

(本) 佐藤亮一 監修:「お国ことばを知る 方言の地図帳」(「方言の読本」増補改定版) 小学館 2002年


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