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    ■■■ 超日本語大研究 2015.10.22 ■■■

   三字熟語の和の風合いを大切にしたいもの

四字熟語は渡来文化を嬉しがる日本文化の一大特徴といえよう。
本家本元の言語から見れば、無意味に近い概念と思えるから。

と言うのは、漢字は一意的な音節文字だからだ。それ自体が名詞か動詞が形容詞かを判断できる附属音表示さえ無い、至極単純な表記である。このことは、連続2文字にしないと特定の意味を伝えにくいことを意味する。それこそ、形容詞的1文字と名詞1文字を繋げることは日常的に普通に使う表現。従って、日本のように、しいてそれを「熟語」として認識する必要などなかろう。

そうなれば、2字+2字でひと塊に見える例など五万とでてくる。そのなかから、頻用されるペアがあるなら、確かにそれは4字熟語と呼んでもさしつかえないが、それほどの意義があるとも思えない。慣用表現といっても、無数にあるとしか思えないからだ。

この四字熟語、日本では大人気である。NHKのEテレ0655に登場する位なのだから。それが、漢字の伝統を護る気分に繋がるからなのだろうか。

しかし、日本語の伝統という観点ならと、4字でなく、3字にして欲しいところ。それは大陸文化ではなさそうなので。
道教は3最高神体制だから、「天地人」の如くに3文字をひと塊にする発想がもっとあってもよさそうだが、大陸では、そのような3文字表現はお嫌いなようなのだ。

冒頭に述べたように、中国語は2字ひと塊の世界だから、2字+2字なら馴染む。しかし、3字だと違和感が生まれるということではないか。3文字ももちろんあるが、その場合は「〇〇〇的」と表現しないと気持ち悪い可能性が高い。つまり、「松竹梅」では、一つ欠けている気がする人達なのである。「序破急」ではなく「起承転結」であらねばの文化と見る訳。
例えば、4文字の「衣食住行」なら旅行で使うかも知れぬが、日本のように「衣食住」を人間生活環境/生活情况の代替用語として用いることはまず無かろうということ。

漢文を読む際には、そんな中国文化に従っている可能性が高い。実際、「仏教用語および中国に故事のあるものは、ほとんど取り上げない」ことになっているとか。(仏法僧、あるいは、韋駄天、阿修羅、天邪鬼といった名称は別ということなのだろうか。その辺りは、浅学な小生にはよくわからない。)

お相撲の世界では、大関・横綱推挙のお知らせのお遣いに対して、「謹んでお受けいたします。〇〇〇〇・・・精進致します。」と語るのが通例化しているようで、四字熟語はほぼ定番化と言ってよさそう。しかし、本来は三字熟語の「心技体」だったのでは。もっとも、ここで「運鈍根」などと言ったりすると怒りをかってしまう訳だが。
まあ、この状況を見ると、「花鳥風月」よりは、「雪月花」の方が、和の心根に合っているとの感覚が失われてしまった気がする。残念である。
と言っても、このように4文字を3文字にする理由は「不可思議」なまま。この熟語も文章では使われるが、会話では死滅しており、もっぱら「不思議」。
科学研究費ではアカンのであって、科研費。人件費用や材料費用も「用」の字が余計で気分悪しなのだ。
推定に過ぎぬが、日本だと「市町村」はえらく座りが良いが、大陸なら「県市町村」が喜ばれるのではなかろうか。

そういえば、総理大臣が読めなかったので有名になったのは3字の「未曾有」である。書の美しさから判断すれば、おそらく御幼少のみぎりから漢文を叩き込まれた筈。その教育から3文字表現は抜け落ちていたということかも。無理矢理教育に辟易して漫画に逃避したくなる気持ちもわからないでもない。
とはいえ、世間には、それなりに三字熟語も存在しているのだが。・・・
一粒種,二枚舌,三行半,四天王,五月雨,七福神,十六夜,十八番,百人力,八百長,千鳥足,万年床.

だが、三字熟語の「真骨頂」はなんといっても、「屁理屈」や「藪医者」の類いだろう。
これは、2字に接頭語的に無・不・非を用いて否定形表現にしたり、本物という意味、あるいは大きいとか高いといった形容詞をつけた3文字化とは訳が違う。
日本語が得意としており、中国語にはさっぱり見かけない情緒的表現をしたいがための造語と考えられ、味わい深いものがあろう。
和の形容語を付けた「愛("まな")弟子」など典型で、"愛"を"アイ"と発音してはイカンのである。形容対象の2文字の方も大陸からの渡来語ではなく、西欧概念に対応すべく創った語彙のこともある。しかも、その単語が中国に輸出されていたりして。

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