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■■■ 超日本語大研究 2015.11.3 ■■■

もみぢ表現で見る日本語の複雑さ


楓蔦黄の候。

3文字だが、漢語的にするなら4文字の「紅葉蔦黄」になろう。実際、そのような記載も見かける。中国暦だと、時期は一致しないが、4文字の「草木黄落」。春の「草木萠動」と対になっている訳だ。こちらの語句は日本版にも取り入れられている。
このことは、秋の「楓蔦黄」は、春の「桜始開」に対応しているのかも知れない。それが倭人の心意気だった可能性も。・・・

 【幸于吉野宮之時】
 :
 
へは 花かざし持ち 立てば 黄葉かざせ
 :

    [柿本人麻呂 万葉集#38]

春秋優劣評価は大好きだったようだ。古事記でも、兄弟の秋山之下氷壮夫と春山霞壮夫が争う話がある位だから。・・・

 【天皇詔内大臣藤原朝臣競憐
  
春山萬花之艶 秋山千葉之彩
  時額田王以歌判之歌】

 冬こもり さり来れば
  鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ
  咲かずありし
花も咲けれ
  山を茂み 入りても取らず
  草深み 取りても見ず
 
秋山の 木の葉を見ては
  
黄葉をば 取りてぞ偲ふ
  青きをば 置きてぞ嘆く
  そこし恨めし 秋山吾は

    [額田王 万葉集#16]

情緒溢れる歌である。
ようやくにして実現した華やかな青春は、もう手が届かなくなった。今は、老齢期をウロウロ。ノスタルジーに耽ることはできるが、若い時のようなことはもうできないネーというのだ。

しかし、まあ、それはそれ。
秋は、宴会好きにはズッと待ってましたの季節。そこでの歌題はやはり紅葉。

 【九月三日宴歌】
 あをによし 奈良人見むと 我が背子が
  標けむ
紅葉[毛美知] 地に落ちめやも
    [大伴家持 万葉集#4223]

紅葉の評価は矢鱈に高いのである。
あの勝手気ままに発言する清少納言にしてから、辛口発言を慎んでいる位だから。・・・

 三月三日に、頭の辨柳のかづらをせさせ、
 
桃の花かざしにささせ、
 
腰にささせなどして、
 ありかせ給ひしをり、
 かかる目見んとは思ひかけけんや」とあはれがる。
  :
 九月三十日、十月一日のほどの
 空うち曇りたるに、風のいたう吹くに、
 黄なる木の葉どもの、
 ほろほろとこぼれ落つる、
 いとあはれなり。
 
櫻の葉、椋の葉などこそ落つれ。
 十月ばかりに、
 木立多かる所の庭は、いとめでたし。

    [清少納言:「枕草子」]

この美的感覚の鋭さは特筆もの。楓蔦黄ではないからだ。なんと、櫻と椋である。秋の桜葉紅葉を取り上げるなど流石の一語に尽きる。
知る人ゾ知るのが、地上に落ちた桜葉の深い赤い色の魅力。ただ、葉は一枚毎に紅葉度が違うので、楓のような錦秋景色の山にはならないし、樹木単位でも今一歩。葉裏の色は冴えないから。
一枚の葉の表を眺めると素敵、ということ。

藤原定家も、春秋優劣が気になっていたのではなかろうか。

   :
  
春霞 龍田の山に初花をしのぶより、
   :
  
は風に散る葛城の紅葉、   :
   :
    [新古今集仮名序]

小生は、定家は紅葉の秋を推していると思うが。・・・

  見わたせば 花も紅葉も なかりけり
   浦の苫屋の 秋の夕ぐれ
    [藤原定家 新古今集#363]

上記の仮名序の「葛城」は素人にとっては、よく耳にする名称ではあれど唐突感あり。
地名のイメージがよくわからないからでもある。例えば、以下の歌は、「岡は 船岡。片岡。」[「枕草子」]ということだろうかと考えてしまったり。

  霧たちて 雁ぞ鳴くなる 片岡の
   朝の原は 紅葉しぬらむ

    読人知らず 古今集#252]

ともあれ、素人でも知る、歌上でのモミジの一大名所といえば龍田川。(龍田川は生駒山東の斑鳩を南に流れ、大和川と合流する。おそらく、河川神の祭祀場があり背後は神奈備山。そこは「みむろ山」だと思われる。)

 <龍田川>
  龍田川 もみぢば流る 神なびの
   みむろの山に 時雨ふるらし

    [読人知らず 古今集#28]
  もみぢ葉の ながれざりせば 龍田川
   水の秋をば たれかしらまし

    [坂上是則 古今集#302]
絵画沿え歌が残っており、龍田川の「もみぢ」を唐紅色に描いていたことがわかる。
    二条の后の春宮の御息所と申しける時に、
      御屏風に龍田川に紅葉流れたる形を描きけるを

  千早ぶる 神代も聞かず 龍田川
   からくれなゐに 水くくるとは

    [在原業平 古今集#294]

龍田川が名所としては群を抜いていそうだが、それぞれの山麓に見所ありだ。

 <二上>
  大坂を 我が越え来れば 二上に
   黄葉流る しぐれ降りつつ

    [読人知らず 万葉集#2185]
 <三輪>
  味酒 三輪のはふりの 山照らす
   秋の黄葉の 散らまく惜しも

    [長屋王 万葉集#1517]
 <春日山>
  秋されば 春日の山の 黄葉見る
   奈良の都の 荒るらく惜しも

    [大原真人 万葉集#1604]
 <御笠山>
  大君の 御笠の山の 黄葉は
   今日の時雨に 散りか過ぎなむ

    [大伴家持 万葉集#1554]
 <高円山>
  天雲に 雁ぞ鳴くなる 高円の
   萩の下葉は もみち
[毛美知]あへむかも
    [中臣清麻呂 万葉集#4296]
 <佐保山>
  唐錦 染めかけてけり 佐保山の
   梢しぐるる 秋のもみぢ葉

    [足利為氏 新続古今集#594]

冒頭で触れたが、日本語は権威を重んじそうな暦の用語でさえも、表現の多少の違いには寛容な感じがする。おそらく、それを愉しんでいるのだろう。
従って、「黄葉」や「紅葉」も多義になってしまう。どちらも、黄色や紅色になるという意味で使われることは稀で、緑色が失せ秋の色付きを感じさせるなら、どちらを使ってもよいのだ。気分的に合う方を選ぶだけの話。
萩の葉など黄色だが、たいていは紅葉と言う。
厄介なのは、訓読みがモミヂだったりするので、カエデ系の植物(楓)を指すのか、秋の色付きを意味しているのかすぐに判別し難い点。
こんな柔軟な表現と言うか、誤解が発生し易い言語がそのママ生きているのは世界的に見て珍しいのではあるまいか。いい加減な定義の言葉でのコミュニケーションはつらいものがあるからだ。それを承知で皆我慢しているというか、かえってそれを楽しんでいるのだから、外部から見るとトンデモなき民族に映るかも知れぬ。
この根底には、情緒的表現を好む体質がありそう。しかも、それは、自己の感情表現を重要視するからと言うよりは、他の人達の感性がどのようなものかを知りたがるせいだったりして。
オ〜、その感覚素敵だネ、となれば、即刻「ソレ、頂き」となる。そして、この表現素晴らしいゾと広める訳だ。
よくよく考えれば、それこそが言語発生の原点かも知れぬが。

上記の地名では、<佐保山>は地域的に里山的な場所の感じがしないでもない。そこは、毛欅系樹木(楢,櫟)が多い筈で、楓等の赤色系ではなく、褐色系ではなかろうか。様々な樹木を移入するから、雑木林的な雰囲気濃厚かも。さすれば、色的には、赤褐色、黄褐色、茶褐色の混合の可能性が高かろう。
樹木名としては、柞[ははそ]が使われるが、ドングリの木といったところか。

  佐保山の ははその色は うすけれど
   秋はふかくも なりにけるかな

    [坂上是則 古今集#267]
  佐保山の ははそのもみぢ 散りぬべみ
   夜さへ見よと 照らす月影

    [読人知らず 古今集#281]
もっとも、里のもみぢなら佐保山というほどでもなさそう。
  宿かこふ ははその柴の 色をさへ
   したひて染むる 初時雨かな

    [西行法師 山家集]

柞はどうもイメージが湧きにくいので、褐色の大量の小楢葉に混じって柏葉の橙色が存在する風景を頭に浮かべることができる歌の方がわかり易かろう。

  見るままに 楢の葉柏 紅葉して
   佐保のわたりの 山ぞしぐるる

    [藤原信実 続古今集]

<佐保山>の情景を唐錦として表現するのは、常套手段だが、おそらく綾錦や幣(ぬさ)が正統派の用語だろう。これに該当する葉は、本来は<錦木>だと思うが、場所によってはさっぱり赤く染まってくれないので、魅力的な木とは言い難い。

  経もなく 緯も定めず 娘子らが
   織る黄葉に 霜な降りそね

    [大津皇子 万葉集#1512]
  このたびは ぬさもとりあへず 手向山
   紅葉の錦 神のまにまに

    [管原道真 古今集]
  龍田河 もみぢみだれて 流るめり
   渡らば錦 なかや絶えなむ

    [ある人、ならの帝の御歌なりとなむ申す 古今集#283]
    永承四年内裏歌合によめる
  嵐吹く みむろの山の もみぢ葉は
   龍田の川の 錦なりけり

    [能因法師 後拾遺集#366]
    小野といふ所に住み侍りける時、もみぢを見て詠める。
  秋の山 もみぢを 幣と手向くれば
   住むわれさへぞ 旅心ちする

    [紀貫之 古今集#299]

思うに、必ずしも、紅葉の代表はモミジとも言えないのではないか。
小生は美の極致は七竈と見なしているが、高山でないと生えていない。それに似ている葉を持つ樹木といえば、<櫨[はぜ]>だろうか。「はじ」は埴輪司を暗示している言葉だと思われる。

  鶉なく かた野にたてる はじ紅葉
   ちりぬばかりに 秋風ぞ吹く

    [前参議親隆 続古今集#794]
  山深み 窓のつれづれ 訪ふものは
   色づき初むる 櫨の立枝

    [西行法師 山家集]
櫻命の西行法師の場合は、里といっても、山里だと思われる。それこそ、吉野山奥千本の紅葉シーンなのかも。その寂しさは現代とは比べものになるまい。昔のことだが、小雪降る日、吉野山奥千本をたずね、竹林院群芳園に泊まったことがあるが、他にお客さんはいなかった。
風の音しか聞こえぬ吉野の山は、色付いた桜葉が次々と落葉していくことになる。そしてもみぢの季節が終わる。
  こがらしに 木葉のおつる 山里は
   涙さへこそ もろくなりけれ

    [西行法師 山家集]


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