表紙 目次 | 「成る」考 <少々長い前置き> 古事記を読んでみたいと思うと、解説書、口語訳、あるいは「お話もの」から入ろうとなりがち。小生は、それはおよしになった方がよいと思う。(但し、本居宣長と丸山眞男の両方の論を紹介しているような本は除く。と言うか、そのような本が欲しいということでもある。本論は、この両極の意義を踏まえて書いたもの。) 良心的な解説本を読む位なら、よく見かけるハウツー本的な「見てわかるムック本」をお勧めしたい。その方が誤解が少なくて済むと見るから。 簡単に言えば、原文か、その書下ろし型のママの文章で無い限り、「成る」という言葉の意味を感じとることができないからである。ここは極めて重要なこと。 これを怠ると、古事記(上ッ巻)を宗教観点からの歴史書として読めなくなるので、折角の古代史本が台無し。 と言っても、たいていの解説書には「成る」のことは書いてある。創造主なしに、最高神が「成る」のが日本神話の一大特徴との説明なき本を探す方が難しかろう。 小生は、それでは不十分と考える。ふ〜ん、で終わってしまうからだ。 各国神話の違いを問う試験での合格を目指すならそれでもよかろうが、本気で太安万侶の歴史観に触れてみたいなら、このレベルではどうにもならぬ。 どうせ神話だから、軽く読みとばしていこうとの姿勢でなく、日本の古代史を考えるために古事記を読んでみたいのなら、それなりの覚悟が必要なのである。と言っても、それほどハードルが高い訳ではない。注意して読んでみればよいだけのこと。 と言うことで、「成る」を取り上げてみよう。 古事記本文の冒頭に出てくる、初めての動詞だからだ。 天地(あめつち)の初發(はじめ)の時、 高天(たかま)の原(はら)に 成りませる神の名(みな)は、 天(あめ)の御中主(みなかぬし)の神。 <「なる」の概念> 古事記では自動詞「なる」が多用される。 と言うか、そこが出発点。 なんらの意志や因果関係もなく、突然偶発的現象が生じたように記載されている点が特筆モノ。しかし、現代人にとっては、その概念はわかりにくい。宇宙観が違うからだろう。 単語そのものにしても、「成る」とされているが、以下に示す他の漢字であっても通用するらしく、極めてブロードな概念と考えられる。ここにも注意を払う必要があろう。 成る 生る 産る 実る 変る 化る 為る しかし、致るところで語られているように、はっきりしていることがある。 神々が自発的に成りませるとしている以上、創造主たる全知全能の神ありきの宗教観とは相いれないという点。 従って、創造主宗教観のもとで使われる言語である英語への、この言葉の翻訳は本来的には不可能に近い。しかし、ニュアンスを伝えることはできなくもない。受動態表現で記載すれば、創造神という主語を隠せるからだ。以下のような単語を使うことになったりする。 be made・・・「創造主が何かを生成させる」の受け身。 be transformed・・・「創造主が何かを変化させる」の受け身。 be completed・・・「創造主が何かを完成させる」の受け身。 be realized・・・「創造主が何かを実現させる」の受け身。 但し、これらの動詞と一見似ていても、使えそうにない語彙が一つある。 be created・・・「創造主が何かを創造する」の受け身。 「無」から「有」を生み出すという行為なので、受け身表現で記載しても、行為主体たる創造主の存在が露見してしまうからだ。明らかに誤った翻訳になってしまう訳だ。 つまり、上記のような他動詞を用いるのはすべて間違い。自動詞でないとまずいのである。と言っても、「無」から突如出現するのだから、becomeは使えない。敢えて言えば、こんな語彙が該当しよう。 appear emerge <創造主非存在とも言い難し> 冒頭の三柱の神々は特段の事績なく、名称記載だけ。すぐに次の神々の説明に移る。ここらも、古事記の特徴として見逃せない。 一番最初に登場するのに、何もした様子はないというのは、不可思議な記載だからだ。しかも表から消えてしまうというのだから、はたして最高神扱いしてよいのかもなんとも。・・・ 獨神(ひとりがみ)に成りまして、 身(みみ)を隱したまひき この神々の後に、宇摩志阿斯訶備比古遲(うましあしかびひこぢ)の神が「成りませる」が、その記述は最初の三柱の神々とは少々違う。・・・ 葦牙(あしかび)のごと 萠(も)え騰(あが)る物に因りて 成りませる 葦の芽のように、湿地からニョキニョキと一気に伸びていく様を比喩的に描いているだけ。しかし、ソレの如き「モノ」に因りてなりませるというのだ。こうなると、突発的かつ自発的に現れただけとも言えなくなってくる。拠り所が存在して初めて成りませるとも読めるからだ。 そうなると、所謂、「依代」的な感覚があったのだろうか、とついつい考えてしまう。ともあれ、このような記述だから、人格神的なイメージからはほど遠く、植物がスクスクと伸びていく姿に感じるエネルギーの根源を抽象化した神と考えることになろう。しかし、それは葦そのものに存在した訳ではなさそうだから、靈的エネルギーが別途存在し、それがこの神なのであろう。万物に靈ありのアニミズム信仰ではないと語っているようなもの。 しかし、よくわからないのは、高天の原を最高神の世界としているのか否か。常識的には、「否」の訳はないが、そうとは思えない記述がすぐ後にある。国生みが上首尾に進まないので、どうすべきか詔を発した神々に検討してもらうのだがと、やおら卜占で意思決定。それは身を隱したまひき神々の意向を伺うためのものだとすれば、その場所は高天原でない別の場所に存在することになってしまう。・・・ 天つ神の命(みこと)以ちて、 太卜(ふとまに)に卜(うら)へて ところが、そのお隠れの神々が、後世に突如登場するからなんともわかりにくい。 さすれば、占いとはそれらの神々の意向を伺うものではないのかも。高天原の神々の存在を超越した、宇宙を支配するなにものかが存在していると考えていたとも読める訳だ。 まさか、現代人のように、自分の頭で意思決定する胆力がないから、偶然性にたよってどうするか決めようという態度ということはなかろうし。 <「うむ」の概念)> 自動詞の「なる」が多用されているのは確かだが、類似概念の他動詞が皆無という訳ではない。それどころか、はっきりと分別した動詞が使われている。それが「うむ」。 間違えてはこまるが、語学の専門家が検討するような話題で書いているのではない。太安万侶が、国生みにあたっての記述において、自動詞の用語と他動詞の用語を混同するナとばかりの註をわざわざ記入しているから、それに沿って考えているに過ぎない。・・・ 意能碁呂島は生みたまへるにあらず 指摘の通り、この島は生まれたとは記載されてはいない。・・・ 沼矛(ぬぼこ)を指(さ)し下(おろ)して畫きたまひ、 鹽こをろこをろに畫き鳴(な)して、 引き上げたまひし時に、 その矛の末(さき)より滴(したた)る鹽の 積りて成れる島は、 淤能碁呂(おのごろ)島なり。 もちろん、他の島は生まれたのである。・・・ かれこの八島のまづ生まれしに因りて、 大八島(おほやしま)國といふ。 ここらは、慎重に読む必要があろう。 意能碁呂島は国生みの最初の島に映るが、成ったものだからそう受け取ってはいけないことになる。現代人には極めてわかりにくい。上記の記載でもはっきりしているように、この島は対偶神の意識的行為の結果で現れた島だからだ。しかも、それは対偶神の偶然行為という訳ではない。・・・ 天つ神諸(もろもろ)の命(みこと)以(も)ちて、 伊耶那岐(いざなぎ)の命伊耶那美(いざなみ)の命の 二柱の神に詔(の)りたまひて、 この漂へる國を修理(をさ)め固め成せと、 天(あめ)の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、 言依(ことよ)さしたまひき。 自動詞の「成る」ではなく、他動詞命令形と思われる「成せ」との詔に従った行為の結果現れた島である。常識的には「生む」現象に思えるが、そう考えてはいけないというのである。 これも又難題と言わざるを得まい。 この「うむ」だが、翻訳すれば"bear"になろう。受け身で"be born"。しかし、これはヒトの子供誕生用語であって、産卵は"lay"や"spawn"。国生みにはそぐわない単語かも。そうなると、"create"にしたくなるが、繰り返しで恐縮だが、それは間違い。はなはだわかりにくいが、この感覚に馴れることができないと太安万侶の歴史観を理解できない。古事記における「うむ」とは、なんらかの対象に働きかけたり、意志の力で無からなにものかを生じさせる"create"という意味が含まれていないのである。対偶(神)の婚姻が行われた結果、「なる」現象をさす用語と考えるべきなのだ。 生む 産む この産む行為だが常識的には交合の結果から生じるもの。その交合は自明な行為という訳でもないのである。古事記では、その定義が記載されているからだ。・・・ 「吾が身は成り成りて、 成り合はぬところ一處あり」 : 「我が身は成り成りて、 成り餘れるところ一處あり。 故この吾が身の成り餘れる處を、 汝が身の成り合はぬ處に刺し塞ぎて、 國土生み成さむと思ほすはいかに」 この最後の文章には以下のようにわざわざ註がついている。「うむ」と読めというのである。 刺塞汝身不成合處而以爲生成國土生奈何[訓生云宇牟下效此] 「なる」と「うむ」の違いの認識がことの他重要だから心せよとのご注意である。 残念ながら、そう言われても、現代人にはどういうことかは自明ではないのである。 <「つくる」の概念> 「うむ」は他動詞で、生み出す対象物を目的語とするから、同じような他動詞の「つくる」と似た印象を与える。 しかし、「つくる」はGrass-rootからといっても、必ず元がある。「無」から「有」を"create"する訳ではない。あくまでも、存在している対象物に働きかける行為。 従って、国生みと、国作り、は違うことになる。 当然ながら宮は作るもの。宮に座す状況を作り出すという感覚だと思われる。 くどいが、創造主の"create"感覚は皆無と言ってよかろう。基本的には「建設」。 build some re-make some 新しい制度を「つくる」ことは、島嶼は"create"な行為と考えられていなかったことを意味するのかも知れぬ。それを変えたのが少名毘古那(すくなびこな)の神だった可能性もあろう。国作りが新たな段階に入ったことになる。 <「ある」の概念> 上記どの行為であろうが、見えるような結果が出れば、それは「ある」ということになる。 "There/Here are/is ---."というbe動詞表現そのもの。あるいは"exist"でもよさげ。しかし、概念は完全に一致している訳ではなさそう。 在る 存る 有る 生る 現る 尻切れトンボになてしまうが、ここまでとしよう。浅学の身で、単なる想像でしかない考えを述べるのは流石に気が引けるので。 マ、これを切欠に、各自お考えになってくれるならそれで本論の目的は達したようなもの。 (参照) 丸山眞男:「歴史意識の古層」「忠誠と反逆」 本居宣長:「古事記伝」 「超日本語大研究」へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2013 RandDManagement.com |