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■■■ 本を読んで [2015.2.1] ■■■

倭文の波紋

竹橋の近代美術館は好みだが、大型タペストリー系の展示がされていても、絵画と違って、どうも感興が湧かない。工芸館の細工物や織物類だと、生活文化の香りがして、思わず見入ってしまうのだが。
ARTとCRAFTを分別する教育を受けてきたからだろうか。

そんなこともあり、芸術家(第一美術協会)でありながら、生活文化研究者(日本生活文化史学会)でもある方の本を取り上げてみたくなった。
と言っても、読む気になったのは、まえがきに「特に興味深く思っていたことを、考究した」と記載されていたから。その手の本だと、研究裏話や仲間オチはカットされ、どこに思考の焦点があり、どうしてそこに拘るのかがわかる。従って、専門的であればあるほど引き込まれる。頭のなかで、普段滅多に使われていない部分が刺激される感じがする訳だ。それが面白い人にはこたえられない。

前置きが長すぎたか。

この本のどこに興味を惹かれたかということになるが、一つ選ぶとしたら、現存していない「倭文」(訓は"しつ"。)の話。
知る人ぞ知る織物の名称である。縞文様[筋模様]を特徴とした倭の織物とされているが、実際はどのようなものだったかわかっている訳ではない。唯一、天理市下池山古墳[3世紀後半〜4世紀初]で僅かな縞織物残存物が出土してはいるものの。ただ、この織物こそ、倭の誇る産品「斑布」だったと考えられている。
【ご参考に・・・】
○岡山県旧御津町の紙工(シトリ)地区のお話:[]「"倭文"という地名は、めずらしい。しかも難語句である。正しく読める人は少ない...。正しくは、シトリ、シズリ、シドリ、シドリノ、シトリノ、シトオリ、シヅなど。」この町の近隣には美咲町錦織地区や津山市綾部がある。一大織物生産地だったことがわかる。
○魏志倭人伝:親魏倭王卑彌呼は「斑布二匹」を献上。一方、授与された品は、先ずは、「絳地交龍錦五匹」「絳地十張」「絳五十匹」「紺青五十匹」。さらに、「紺地句文錦三匹」「細班華五張」「白絹五十匹」。その上で、五尺刀二口-銅鏡百枚-真珠-鉛丹各五十斤と続く。銅鏡に注目するのは、遺跡出土品上致し方ないとはいえ、外交儀礼上で重んじられているのは、明らかに織物類。

これだけだと、フ〜ンで終わるのだが、芸術家の感性で語ってもらうと、不思議なことに気づく。日本で、縞模様の織物が好まれていたとは思えないからだ。と言うことは、渡来した"素敵な"織物をマスターした上でそれを倭的に改良した可能性が高そうということになる。しかし、大陸は独特の文様表示だらけで、縞織物が愛好されていたとは思えない。
そこに、研究者としての知見が加わるのである。タミルでの織物調査結果から見ると、日本との類似性がありそうというのだ。
そうなると、大野普説を否定する訳にはいかないのでは、ということになる。
 <日本語>・・・<タミル語>対応
 おる[織]・・・all-u
 はた[布,旗,凧,機]・・・pat-am
 かせ[]・・・kat-ukku,kat-ir
 しつ[倭文](もっぱら神事用)・・・terr-u,tett-u(固き織)
  倭文−(使用例)→胡床,鞍,環,帯
 あむ[編]/あみ[網]・・・対応語無し(織とは違う手法.)
その発祥は、靭皮繊維を用いた呪術的色彩の強い布だったかもという訳。

矢張りそうか。
インド-東南アジア-黒潮海流の海人交流路に乗って渡来した文化ということでは。斑布とは弥生時代に花開いた技術では。それは、土蜘蛛文化の可能性も。(糸造りの土族か。大阪湾岸で東征軍に勝利した勢力も同じで、超巨大古墳の構築を支援することになったのでは。)

海路は、ほそぼそとはいえ、その後も存在していたのでは。と言うのは、奈良に「頭塔」があるからだ。コレ、ジャワ島のボロブドゥール遺跡(792年完成の盆地所在型超大規模仏教寺院[南伝大乗])のコンセプトそっくり。767年に東大寺の実忠和尚(お水取りを始めた僧)が造営したと伝わる。
   [古都散策]奈良公園から春日大社を経て高畑へ…
その東大寺修二会で吹き鳴らされるのが法螺貝。暗記モノ歴史における仏教伝来観は、印度→チベット→敦煌→中原→朝鮮半島→大和朝廷とのルートだが、法螺貝が乗ってくるものかはなはだ疑問である。大きな貝は珊瑚礁の海にしか棲息しないからだ。もともと、ヒンドゥー教神話“Paanchajanya”由来の悪魔祓いの神器だが、印度大陸に存在する訳もなく、モルジブ辺りにしか棲息しない貝では。
   ほら貝の話[2009年3月13日]
ご存知のように、「お水取り」は東大寺の最重要儀式である。しかし、それが仏教儀式とは思えまい。水の扱い方自体が、倭の祓いとは異なるものだし、巨大松明はゾロアスター教(拝火教)を思わせるからだ。
日本の古代信仰の基層に、こうした思想が親和的だったのは確実であり、それは南印度からの海路渡来であるのは間違いないと思うのだが。

この本を読んでいると、こんな具合に頭が刺激されるのである。

それは実は「倭文」話が産みだした訳ではない。この本では、織り方で、ユーロアフロ域が、西方と東方の2つの異なる文化圏に分かれていると喝破しているからだ。それは、石器文化圏としても見てとれることができる。ヒマラヤ南山麓-ガンジス河流域-アッサム高原辺りが両文化の混交域となる訳だ。
残念ながら、古代の衣料素材は全くわからない訳だが、小生は、織物は東方では樹木皮から始まり、西方では山羊毛と見る。もちろん1万年以上前の話である。生産性から、主流はすぐに、東方では苧(からむし)、西方は羊毛となったのでは。両者の接点地域では、インドの綿花、中央アジアでは麻が代替品として勃興したのではなかろうか。ちなみに魏志倭人伝では倭では、禾稲作に加え苧麻作が指摘されており、細紵を産するとされる位であるから、上質な織物があったに違いないのである。
須勢理毘賣は、「綾垣の ふはやが下に 苧衾 柔 やが下に 栲衾」と語る。大国主の命の時代、絹の綾織布でできた衝立様の仕切り布に囲われた室内で、布団的寝具として、柔らかな苧麻製品と御座的に丈夫な栲製品が使われていたと推定できるからだ。

ついつい、とりとめない話に発展してしまった。
まあ、その辺りが、この本の良さ。

(本) 植村和代:「織物 (ものと人間の文化史169)」 法政大学出版局 2014年12月15日

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