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2009年12月7日
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【古都散策方法 奈良-その1】
奈良公園から春日大社を経て高畑へ…

奈良で遊ぶならこうされるのも一興との、ご提案をしてみたくなった。
 → 「雑感: 奈良観光」 [2009.11.26]
ご参考にされ、ご自分なりのテーマで散策されたら如何。

[コース]
奈良公園→春日大社→摂社→上の禰宣道→高畑→頭塔→奈良町
出発点から到着点まですべて徒歩。
一言で言えば、「御蓋山散策コース」。奈良に来たら、先ずはここから。
高畑辺りから後は付け足しだが、それなりに意味あり。 [高畑には入江泰吉記念奈良市写真美術館]

[テーマ設定のヒント]
   ■■■平城京の位置■■■
〜古都の位置関係〜
-西側- -東側-
▲▲▲▲▲ ▲▲▲↑▲ ▲▲▲▲▲

奈良山
(佐紀-佐保)

[木津川]▲

▲生駒山
 平城京
 
御蓋山▲
▲[大和郡山]
▲信貴山   石上神宮▲

▲二上山
  三輪山▲


藤原京

▲葛城山
金剛山▲▲ ▲▲△▲▲ ▲▲▲▲▲
古都「平城京」の寿命は短かった。遷都が710年で、784年には、はやばやと移ってしまったのだから。
この地を都に選んだのは、遷都の習慣から、亀筮占いで決めたのではあろうが、シルクロード東端の国家としての存在感を示す最適地を選んだと考えるのが自然だろう。
巨大寺院建造が不可欠だが、藤原京がそれには向かなかったということ。
ほぼ真南にあった藤原京は、平城京と同等の大きさだが、耳成[北]・畝傍[南西]・天香久[南東]の三山に囲まれている。都市内に古代の信仰が係わる野山があるのはいかにも不都合。
地域全体から見れば、葛城地区、大和地区、奈良地区の南部の繁栄が北上してきたことになるが、中国型の統治国家を目指すなら、残っているのは奈良地区しかありえなかったのは明らか。
それに、三輪山から、山沿いに“上ツ道”(山野辺)を北へ行けば御蓋山ということもあろう。

   ■■■青丹吉■■■
ナラの枕言葉と暗記させられた、“アオニヨシ[青丹吉]”だが、近江遷都の歌がその感覚を伝えてくれる。注意して欲しいのは、これは平城京の歌では無い点。
“味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の山の際に い隠るまで 道の隈い積もるまでにつばらにも見つつ行かむを しばしばも見放けむ山を心なく雲の隠さふべしや”
[額田王下近江國時<作>歌井戸王即和歌] 万葉集巻一18 [(C) University of Virginia)]
これだけで、おわかりになろう。
素人感覚なら、これは、空(天)の青さと、柱(丸太)の朱色(丹)が、山(信仰対象)に映えることに感じ入った表現そのものである。注目すべきは、大神神社のある三輪の山からの連綿と続く山信仰。
平城京辺りを歩くなら、国家鎮護仏教の跡からでなく、今も揺ぎ無い信仰が続いている朱色の世界から。

   ■■■山信仰■■■
だが、「山」信仰を続けてはいるものの、徹底した中国仏教文化の導入を図ったのは明らか。おそらく、明治維新同様、服装から一変したのでは。
そんな風潮なら、神社信仰は廃れそうなものだが、そうはならなかった。その理由を考えながら、春日山(御蓋山)山麓一帯の木々のなかを歩くのはなかなかのもの。
(尚、春日山は丘が3つある通称三笠山[芝が生える若草山]の南隣の山。名称が“御蓋山”なので読みは同じだが、全く別なお山。観光産業としては、若草山をミカサヤマとして訴求したいだろうからご注意あれ。“三笠の山にいでし月かも”は若草山の美しい風景を思い出した望郷の歌としがちだが、仲麻呂は唐に重用されていた筈だし、故郷の、神々しい御蓋山のお姿を称えて詠んだ歌と考えるべきだと思う。)

   ■■■様々な信仰の存在■■■
「若宮」や「頭塔」といったよくわからない信仰も存在したようだ。一体、これは何なのか、思いを巡らしてみるのも一興。
この時代、皇子を始めとして、政治の舞台から突然にして消し去られた人物は少なくない。それは祟りばかりの世の中の幕開けでもあったろう。
現代の目からその政治状況を眺めれば、権謀術数の権力闘争に映るが、実は、細かな違いでのセクト的思想闘争だったかも知れぬ。

[ポイント]
■奈良公園■
奈良公園には、東西を貫く“三条大路”から入ろう。現代の道路でしかないが、地理的に平城京の路という感じがするのは、ここだけだから。
言うまでもないが、東は御蓋山で、西は生駒山。東はシルクロードの突き当たりである。一方の西は暗峠を越えればそこは難波。京都の三条とは違い、東国には関心が薄く、海に繋がるインターナショナルな都だったことが実感できよう。奈良公園は、この感覚を味わうのに最適だと思う。
鹿島神宮から神が白鹿に乗って奈良においでになったとされ、鹿は放し飼い状態。平城京時代から大切にされたのだろう。
折角だから、鹿煎餅を買ってあげよう。食べてくれるとは限らないが。
御蓋山だけでなく、山焼きで有名な三笠山(若草山)も仰ぎみよう。青い空と、そこにかかる雲。そう、季節はどうでもよいのだが、晴れた日に限る。
若草山には、公園の芝ではなく、和種の野芝が生えていると聞くが、実態はわからない。もともとは古墳らしいが、なんだか。ともかく、鹿のお食事所として維持されてきたのは間違いない。
せっかくだから、野で、“三笠山”(お菓子のドラ焼き)に緑茶といきたいが、そんなサービスはないようだ。鹿のいます神苑でそんな発想は罰あたりか。

■春日大社と春日山の森■
春日大社の場所は、地形から考えると、山裾の泉か井戸から水が流れ出ていた地ではないか。形式上は、平城京創設に伴う新興の神社だが、名称から見て、土着信仰と融合したものだろう。春になると、朝日が差し込む“神の御山”を崇めた祭祀を行っていたに違いなかろう。今は芝が生える公園だが、昔も野で、そこでも祭祀を行っていたと思われる。
当然ながら、山の開発などもってのほか。
そのため、膨大な参拝者にもかかわらず、森の深さで雑踏感が余り感じられない。そこがこの神社のよさ。
・御蓋山がご神体とされており、古代からの伝統を守っている。
      -寺院との融合を避けているように映る。
      -茂る木々に囲まれている。(鹿が食べない馬酔木や梛が植わっている。)
      -梛の存在は、南洋の信仰系譜を重視していることの現われだと思う。
      -その一方で、杉もみかける。植林以外に考えられまい。
      -それに、いつ頃かわからぬが、松を尊ぶ思想が導入されているようだ。
      -手を入れない森ではないが、奥山へ入ることは避けたようだ。
      -森を重視する姿勢だけは明確である。
・新たに神を勧請したとされる。(創建768年)
      -御神殿は簡素(遷宮)
      -最初に、鹿島神宮から武甕槌命
      -次に、香取神宮から経津主命
      -そして、河内の枚岡神社から経津主命 比売神(巫女だろうか。)
      -藤原氏の祖霊が降りる山として、土着信仰と混淆したのが発祥だと思うが。
      -気になるのは、神社が山を向いていないこと。南向きなのである。
      -門や建物は朱色柱と白壁だが、平城京色調ということか。
      -現在の神社は、興福寺との神仏混淆は感じられない。
・平城京以後も、神社として貴族の支援を受け続けた。
      -藤原一族の氏神総揃えということか。
      -頂点ではないから、出雲や伊勢より小さな屋代にしている。
      -高倉天皇お手植えの林檎の木があったとされる。(平安京の頃である。)
      -仏教との混淆で寄進も多かったようだ。(東・西塔跡: 国立博物館付近)
・寄進された万燈籠が信仰の強さを物語る。
・摂社や末社の数は多い。
・有名な藤棚もあるが、その存在にたいした意味はなかろう。
      -枝垂れは美しいが、森の信仰とは相反する感じがする。
       (岩清水八幡の献花木のしきたりには藤は入っていない。)
      -本来は“山藤”だったか。おそらく、御蓋山には生えている。
      -藤なら、藤原氏の私寺の興福寺(南円堂)が本流だろう。
      -藤原氏は祭祀担当の中臣氏だった。何故「藤」になったのだろう。

■新薬師寺■
拝観しなくても、高畑地区の細道を通り、塀周りを歩き、門まで行くことに意味がある。住宅地にある、小さなお堂のお寺であることが実感できよう。
創建時は巨大な寺だったが寺勢は衰退一途だったということ。奈良仏教は墓地管理と檀家で支えられる仕組みではなく、国家鎮護か貴族御用。パトロンを失えば、即刻消滅の運命である。
特に、このお寺はそうならざるを得まい。なにせ、西の京には、官立の薬師寺があるからだ。私的な薬師寺を支援し続けるなら、その一族が繁栄する必要がある訳だ。
春日大社にしても、藤原氏の支援ありき。ただ、私的な礼拝所ではなく、信仰を広げたから隆盛を誇っていると見るべきだろう。ご利益があったということ。
このお寺は、そんな道を切り拓くことはできなかった。雑多な状況がその苦難を物語る。
・「薬師如来+日光/月光菩薩+十二神像」がいくつもあったようだ。
      -金堂は現本堂西の相当離れた奈良教育大学附属小学校内辺り
      -金堂横幅は現在の東大寺大仏殿近かった筈
・聖武天皇病気平癒祈願ということで東大寺の僧が異動したのだろう。
      -東大寺には薬師金堂欠落
      -今も、華厳宗(東大寺別院)
当初の建物や仏像ではないが、創建時代の、仏像や建物が集まっている。要するに、バラバラの寄せ集め。
・狭くて窮屈な感じがする現境内は、当初の伽藍の東端のほんの一部。
・ガランとした本堂は金堂ではない。ただ、当時の建物だそうである。(用途は不明。)
・十二神像は創建の頃の塑像だが、他所からの移設かも。
・本尊は木造でおそらく後世のもの。
・須弥壇は、土築円形であり、なんとなく違和感を与える。
・鐘楼を焼失した元興寺の鐘を使用している。
まあ、得体の知れぬ状況。境内には他のよくわからぬものもあり、ゴチャゴチャ感を拭い去るのは難しい。
拝観したなら、せっかくだから、下段に梵字が彫ってある五重の石塔も眺めておこう。なにがなんだか訳がわからぬものだが、もともとは十三重で、壊れたので復元したとのこと。当初の製作者は実忠和尚だとされる。一体、何なのだろうか。こんなところも、いかにも、このお寺らしい。

■頭塔■
五重の石塔を眺めてどうすると思われるむきもあろう。実は、「頭塔」に立ち寄るための前段である。
この「頭塔」だが、日本的でない不思議な建造物である。こんなものが平城京にあったのである。しかも、それが残っているのだ。
・767年に作られた土塔を修理したもの。
・東大寺の実忠和尚(お水取りを始めた僧)造営。
・一辺約30mの方形で高さ約10m弱の盛土石覆の七段ピラミッドとか。
・一番上に新薬師寺の石塔があったのかも。
・いわくありげな首塚伝説がある。
どう見ても、ジャワ島のボロブドゥール遺跡のコンセプトそっくり。規模は小さく、仏様が入った透かし釣鐘が無いだけのこと。あちらの遺跡は800年頃と言われており同時代。平城京のインターナショナル性紛々。
仏教にも、異端セクトが存在したということかも。当然ながら、この流れは消された。土の建造物は、古墳での祭祀復活を感じさせるからかも。

[順路]
(1) 寄り道せずに、直接、奈良公園へ。(東大寺や興福寺を経由しない。)
(2) 先ずは、芝生で鹿とひとしきリ遊ぶ。
      -池方面での庭園散策をしない。
(3) 森のなかの石燈篭が並ぶ参道を歩いて、春日大社を参拝する。
      -三条通りを、公園の一の鳥居からまっすぐ東に進むだけ。
      -混んでなければ、参道途中の茶屋で茶粥という手もある。
      -本殿の辺りは狭隘だから、静謐な環境でのお参りを望むべきではない。
      -ご利益が授かる神様を祀った摂社に参拝しながら歩いていく手もあろう。
      -若宮神社等の由緒は読むと面白い。
(4) 人気の無い森のなかの“上の禰宣道”を通って高畑地区に入る。
      -要するに、神官が居住地から通っていた道路である。
      -“下の禰宣道”は「ささやきの小径」として散策路になっている。
      -暗い日は気分がのらないので、避けた方がよい。
(5) 高畑辺りでは、新薬師寺目指し、細道を早足で通りすぎるしかなかろう。
      -「ささやきの小径+志賀直哉旧居+たかばたけ茶論」という手もある。
      -昔は、崩れた土塀や、古い家が多く風情があった地域である。
      -当たり前だが、今は単なる住宅地。ところどころに趣ある塀や家はあるが。
      -観光客向けのお店はポツポツ存在。
      -細道でもナビで観光客の車がうろつく。
(6) 興味がある人は新薬師寺を拝観する。
(7) 新薬師寺から坂を下り、奈良市写真美術館前の道を歩く。
      -入江泰吉写真集を知る人は覗きたくなろう。
      -展示内容によるが、古い奈良の写真が見られるなら入館はお勧め。
      -コーヒーで一休みという手も。
(8) 道なりに下れば、60号線に出るから、右折して、こののバス通りを北へ100m弱歩く。
      -バス停留場あるいはホテル前の辺り。
(9) そのホテルの駐車場から頭塔を眺める。
      -ホテルとは「ウエルネスイン飛鳥路」だが、昔の名前は違う。
      -駐車場への立ち入りができないこともあろう。
      -入り口は別[施錠]。入場可能。(建具屋さん管理。)
(10) ホテル向かいのお蕎麦屋さんでの食事ということになるか。
(11) くたびれていなければ、高畑交差点から、奈良町方面へと歩を進めてもよかろう。
      -奈良町界隈は、観光客相手のお洒落なお店が多い。
      -お好みのお店が見つかるかも。
      -今や、奈良町が「奈良」観光業の中心となりつつある。これが現実。

次回に続く >>>


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