↑ トップ頁へ |
2007.9.26 |
|
|
徒然草の魅力[2]…兼好は僧侶である。しかし、隠遁生活を送ることで、仏の道に精進している訳ではない。→ 「徒然草の魅力[1]」 (2007年9月19日) なぜそんな生活を追及したのか。 おそらく、時代感覚を研ぎ澄まさないと、つまらぬ答しかでまい。ここをじっくり考えるのが、徒然草の醍醐味でもある。 兼好(1283〜1350年)の生きた時代は鎌倉末期から南北朝。 ただ、学校で習った日本史の知識を思い出しながら、時代背景を考えるのはよした方がよい。かえって、時代感覚をそこなうからだ。 それこそ、武士による、武士のための、武士の政治になったとか、皇位継承争いが始まったといった見方にとらわれるからだ。これでは、何も見えてこない。 実につまらぬ。 しかし、そうなってしまうのは、教育のお陰である。 どういう考え方で時代区分するのかは不問のままで、先ずは決められた時代区分と結節点の年号を暗記させられる。その上で、各時代を様々な観点から比較させる。 そのため、歴史好きは、細かな分析に注力する。それはそれで結構な話だが、概念的把握能力は下がる。細かな違いの議論に陥るから、知的センスは劣悪化せざるを得ない。 素人は、素人なりに、兼好の生きた時代を想像するのがよかろう。 例えば、この時代の特徴を、一言で、商品経済への突入と言い切ると、違う面が見えてくる。 貨幣経済が浸透し、公家、武家、寺、すべてがこの経済のうねりに翻弄されたとと見るのである。 当然ながら、権力構造は不安定化し、新しい思想が力を持つようになる。 遺跡調査結果(1)を見れば、そう考えざるを得ないのである。 と言うのは、当時、本州最北ともいえる十三湖にすでに、大貿易港があったからだ。このことは、頻繁に津軽船が走っていたし、外航船も珍しくなかったということ。十三湊から、リマン海流に乗り朝鮮半島に行き着く定期航路があったに違いない。 しかも、1323年に朝鮮半島の木浦で沈んだ船の積荷を見れば(2)、当時の国際貿易の実態がわかる。 寺の復興用配船とされているようだが、銭が直接復興資材になる訳ではなかろう。どう考えても、これは寺が行っている商社活動である。寺の役割は、先端知識の導入だけではなかったということ。 僧とは、所領からの収入で運営する寺組織に属す、仏の道を究めようとお勤めする宗教家ではあるが、そのなかには、先端技術や異国文化を理解できる知識人や、国際ビジネスマンを数多く抱えていたのである。 (元寇もこの時代だが兼好誕生前: 1274年と1281年) 変質は、寺だけではない。公家も武家も、商品取引の世界になってしまえば、その差などなくなる。 極端に言えば、公家が存在感を保てるのは、儀式だけになってしまいかねないということ。 おそらく、そんなことで、先例重視の 「有職故実」に結実したのではないか。 こうなれば、宗教も変わるのは当然の流れだ。 宗教分野での一番の問題は、主流の密教型天台・真言がこの流れに対応できなかったことだと思う。寺に篭り切りで修行に励む専門家集団が主導権を握っていたからだ。商品経済が発展しているのに、朝廷だけを守るために、出張祈祷をしたり、護衛の兵力を提供するだけでは、社会的な役割としてはマイナーな地位に陥るのは必然である。 従って、禅宗や新宗派の勃興とは、貨幣経済の進展で変わってきた信者層に合わせた、天台・真言の変身の動きでもある。実際、新宗教といっても、そのリーダーは比叡山修行者であることが多い。 例えば、比叡山での修行生活パターンを抜きだし、武士や庄屋層に向けた非密教型宗教に変えたのが禅宗系宗教と言えなくもない。 一方、午後の仏へのお勤めを儀式化し、南無阿弥陀仏を唱えることを重視すれば、浄土信仰宗派が生まれるということだろう。 生活パターンを変えられない公家にとって、浄土信仰はごく自然な流れだと思う。末法信仰と言うより、商品経済下で繁栄を願う宗教としての浄土信仰なのではなかろうか。 こんな風に考えると、朝のお勤めを独立させたのが、法華経宗派と見ることもできそうだ。こちらは、アクティブに動くことを重視するから、反既得権益勢力層に浸透することになりがちだ。
どうしてそんな決断をしたかは、履歴を眺めると、色々と想像ができよう。 出身は、神祇官を出す神職の卜部家。藤原氏の吉田神社の神主を勤める一族だ。ただ、本家ではなく、祖父 兼名の時からの分家。父 兼顯 は有力貴族の官吏。 兼好は1283年生まれの三男。ちなみに、長男は大僧正で次男は従五位。 奉職先は、ほぼ同世代である、後二条天皇系の堀河具守家。そこで諸大夫となる。 その結果、後二条天皇に六位蔵人として奉仕することになる。公卿にはなれない地位だが、宮中昇殿の資格があり、機密文書の保管、詔勅の伝宣、宮廷の諸雑事等を担当する役職だそうである。(3) こんな仕事をしていれば、朝廷・公家の内部事情が手にとるようにわかったに違いない。 そして、後二条天皇崩御後に出家の道を選んだのである。 実に、賢い選択といえよう。
兼好の歌の師匠は後宇多上皇系の二条為世。 ところが、花園天皇になり、勅撰集編纂で京極為兼と対立してしまい、閑居させられたのである。 おそらく、賢い兼好はこうした結末を読んでいたに違いない。 そして、後二条天皇崩御に伴い、花園天皇と後醍醐皇太子が組で即位することになる。この時点で、兼好は、後醍醐天皇時代の状況を読んだに違いない。 後宇多上皇は真言密教に傾倒していたし、儒教も深く学んでいた筈だ。二人の皇子も同じようなもの。和歌と書道を身につけ、朱子学や真言についても人並み以上に理解を深めている兼好にとっては、これが何を意味するかわかっていた筈だ。 現実を冷徹に見据える目からは、ドグマ信奉に映ったに違いない。 後醍醐天皇の時代に入れば、朱子学の思想を振りかざし大胆な動きを見せること必定と考えたということ。 このまま朝廷で仕事を続けていれば、後醍醐革命闘争に巻き込まれる。そんなものに乗ったところで、たいした意味は無いが、どうすべきか熟考した結果が出家である。 当たり前だが、そんなことを公言する訳がない。 徒然草を読むと、政権交代や栄枯盛衰を第三者的に見ているように感じるが、こうした政治状況を考えれば、兼好の意図が見えてくるのではなかろうか。 “飛鳥川の淵瀬常ならぬ世にしあれば、時うつり事さり、たのしびかなしびゆきかひて、花やかなりしあたりも人住まぬのらとなり、變らぬ住家は人あらたまりぬ。桃李もの言はねば、誰と共にか昔を語らん。まして、見ぬ古のやん事なかりけん跡のみぞ、いとはかなき。” [第25段] “御國ゆづりの節會行はれて、劍、璽、内侍所わたし奉らるゝほどこそ、限なう心細けれ。” [第27段] --- 参照 --- (1) 「よみがえる十三湊遺跡」 歴博 http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/kojima/iseki.html (2) 「負けぬが勝ち 博多商人伝 第2部 海をひらく (6) 千金の夢、船と沈む」 読売新聞 [2003.6.12] http://kyushu.yomiuri.co.jp/hakatahatu/shonin/ha_sh_03061201.htm (3) 「第三十六回 王朝文学と音楽 −写本によみがえる音色− “あの頃兼好は若かった!!! 〜兼好法師と貴族性〜”」 東海大学付属図書館 中央図書館 展示の部屋 [2002年11月] http://www.tsc.u-tokai.ac.jp/ctosho/lib/tenji/36th-10.htm (4) 千人万首 ―よよのうたびと― 二条為世 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tameyo.html (徒然草) Japanese Text Initiative [日本古典文学読本IV日本評論者 1939] http://etext.lib.virginia.edu/japanese/tsure/YosTsur.html (天皇の一覧) Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7 (絵の写真) 「吉田兼好 (菊池容斎・画、明治時代)」 WikipediaCommons http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Yoshida_Kenko.jpg 文化論の目次へ>>> トップ頁へ>>> |
(C) 1999-2007 RandDManagement.com |