→表紙 | 2013.11.3 |
日本の汁の由来を考えてみた小生は東アジアの食文化の起源は南島にあると見ている。それだけではない。海人は他所へと移動する孤高の文化人でもあったから、それが「料理の起源」である可能性まあると見る。どもあれ、東アジア全域の「食事のメニュー」の原型は、南島食にありと考えている訳である。これを単にイモ食文化と呼ぶ人もいるが、それは誤解を与えかねない。栄養繁殖のたいしたスキルも必要としない準農耕社会と見なしがちだからだ。貝殻を用いた高度な道具や、鮫の歯や皮膚を利用したりと、技術は極めて高度だったと見るべきではないか。ただ、島嶼は環境が一様ではないから、巨大国家になりにくかっただけで、生活水準は極めて高かった可能性もあろう。 別に、そう信じたいということではなく、日本人だからどうしてもそう考えざるを得ないだけ。 なんといっても、古代人の南島の「貝」への憧れはただならぬものがあったのが確実なのだから。それは、おそらく、一種の竜宮城信仰でもあったろう。そこには垂涎モノの食文化が燦然と輝いていた筈。従って、日本食文化の基底には南島の食文化があるに違いないと踏んでいる訳。 しかも、日本文化の特質は、大陸のように、毎回、ご破算願いましてとしないこと。流行にはすぐにのるクチだが、その一方で、古い文化をなんとかして残そうとの算段が常に働いている。従って、南島の素敵な食文化を忘れてしまうことなど金輪際なかろう。 まあ、その一つの例が蒸飯や湯取り法炊飯。(照葉樹林文化はなく南島食文化。)ネチョネチョ食からどうしても離れたくなかったのである。新文化に移行した時に、そんなのどうでもよいと考える民族だらけだったのに、日本人はそうはさせじと、こだわったのだと思う。一種の島国根性でもあろう。 ただ、ネチョネチョ食は南島食文化では末梢的な特徴でしかないと思う。 なんといっても、最大の貢献は以下のような「食事のメニュー」を完成させたこと。・・・ (1) 主食と副食のセット化 言うまでもないが、主食は加熱した芋(澱粉)であり、副食は魚介類(蛋白質)である。この基本形式を執拗に追求してきたのが和食である。しかも、魚介の最高は「生」とくる。次が「焼」。これらの調理方法は、獲りたてのその場での食事ならどこでも当たり前だが、日本人はそうでなくてもこだわりを見せる。できるだけ獲ったままの形で手を加えずに頂戴するのがベストとの、いかにも、海人の誇りを感じさせる約束事と言えよう。南島文化を彷彿させるものがある。 (2) 魚介の旨みが味わえる技 肝の類をつけたり、海塩を魚介に足していたと思われる。たったそれだけで、主食がより美味しく食べれるというのが、南島の食文化の核。東アジア型のアミノ酸調味料の始まりである。 当然ながら、旨みが濃縮される干し魚介類も製造した筈。副食に「干物」も登場した訳である。 まあ、そのうちに、塩辛が登場する訳である。それが、魚醤に進化することになる。日本では一部にしか残っていないが。どこでも自家製が可能な、味噌に地位を奪われたということだろう。どのみち、魚介醗酵調味料たる鰹節を使うから、そこまでこだわることはしなかったのだろう。だが、味噌から醤油へと発展させたのは、魚醤のノスタルジーといえなくもないかも。 ここで忘れてならないのが、日本では、抽出油脂の旨さをえらく軽視してきたこと。油脂は魚から摂取するだけでことたれりなのだ。そして、旨み以外には冷淡であり、スパイスやハーブも不可欠とは考えない。刺激の強いものはどちらかといえば、苦手といえまいか。 これらは、まさに南島の食文化そのものではなかろうか。 (3) 生野菜を一緒に食べる習慣 ここが食文化として、重要なところ。主食、副食、調味料にもう一つ、生野菜がついていた可能性が高い。軽く茹でた可能性はあるが、原則は生である。日本と東南アジアでは、この「生」が嬉しいのだが、大陸側にはその感覚は無く原則加熱であり、生には違和感を覚える人だらけ。 東南アジアでは空心菜(→ 2009.1.13) の料理が多いが、これは低湿地の植物であり、南島食文化の大陸バージョン野菜としては好適な感じがする。 日本の漬物は、古漬けもあるが、野菜モノに不足する時期に対応するための工夫ということだろう。 一汁三菜型食事を好む日本人からすると、ここで終わる訳にはいかず、どうしても「汁」が必要となる。 しかし、南島食文化に「汁」があったかかはよくわからない。日本に渡来した貝殻を見ると、珊瑚礁地域が多いようだから、水は豊富とはいえず、汁物料理が作られたかどうかはよくわからない。と言って、日本の味噌汁や澄まし汁の由来がわかっている訳でもなく、上記の流れから考えると南島食文化の血筋を引いていてもおかしくなさそうな気もする。 と言うことで、東南アジアの汁物を眺めてみることにした。 観光客的な観点から、西洋風や中華風を除いて、ザックリと味で分類すると以下の4種になりそう。 (A) 柑橘果汁やタマリンド入り酸味タイプ (B) ココ椰子ミルク/ジュース入り薄甘味タイプ (B’) 上記のカレー味タイプ (C) スパイシーかつ芳香性を感じさせるタイプ (C’) トウガラシ/胡椒リッチな超刺激タイプ (D) 特別な味を感じさせないプレーンタイプ この地域は、西側から、仏教、ヒンズー教、イスラム教が入ってきたこともあり、いかにもその系統というものだらけ。タマリンド、カレー/スパイスはどう見てもインド大陸辺りの食文化を彷彿させる。柑橘とココ椰子だけが地元臭を与えるが、これがはたして南島の「食事のメニュー」に入っていただろうか。 椰子の実を食していたのは確かだが、それは間食だったのではなかろうか。主食にはならないし、副食にもなりそうになく、調味料として加える必要もなさそうだから。 柑橘の場合だと、果汁は魚介や野菜の調味料として使っていそうだが、必須ではなかろう。どちらかといえば酸っぱい果物は活動した後に食べるものでは。 そうなると、(D)が、基本メニューだったとは言えまいか。 いい加減な推測でしかないが、どうせ、この地域は調べたところでますますわからなくなるだけ。分析的視点ではなく、素人的な生活観でザッと眺め回した方が「森」の全体が見えてきそう。勝手な言い草ではあるが。 なにせ、この地域は、全く系統が異なる人種や言語が入り乱れているのだ。(江南からのラオス/タイ、中国のかつての越所在地からのベトナムと土着ベトナム、マレー、クメール、メコンの土着、ミクロネシア、メラネシア、・・・)しかも、ラオスやインドネシアにはとんでもない数の少数民族が住んでいるようだ。もっとも、それこそが島嶼文化そのものと言える訳だが。もちろん、それぞれがこだわりの食文化を持っているのである。 うーむ。 考えてみれば、環礁では「真水」は貴重品である。生野菜をそのまま食すのも当然だが、多少の灰汁を感じたら煮る位はしただろう。日本なら、茹で汁は即廃棄だが、貴重な水は捨てられまい。そのような「汁物」がメニューに加わっていたのでは。 日本の「汁物」も野の「菜」をつっこんで煮ただけの時代もあったろう。余裕ができ、出汁が入り、味噌味加わったりしたということだろう。 → お味噌汁作りの学び方(2008.6.11) 文化論の目次へ>>> HOME>>> |
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