表紙
目次

2014.7.24

太安万侶の凄さ

「古事記」は、ご存知のように、和銅五年正月廿八日、正五位上勳五等太朝臣安萬侶謹上。この序文は極めて重要である。

先ず、太安万侶は、この歴史書を書き下ろすに当たって、書体をどうするか、じっくり考えたことがわかる。その結果生まれたのが、音訓入り乱れた文章。我々が日々使っている日本語の原初形態が形作られたと言ってよかろう。
   文語史のススメ
この人なかりせば、今の日本語がどうなっていたかわからないのである。

そして、もう一つ。
序文に書いてある通り、舍人が発した言葉を安万侶が文字にしたという点。
古事記が比類なき書であるのはここに尽きると言ってもよいかも。・・・
時有舍人。姓稗田名阿禮。年是廿八。爲人聰明。度目誦口。拂耳勒心。即勅語阿禮。令誦習帝皇日繼。及先代舊辭。然運移世異。未行其事矣。

太安万侶が編纂に係ったとされる、国史たる「日本書紀」とは、考え方が全く違うことがよくわかる。従って、小生は、両者を比較すべきではないと考える。
要するに、古事記とは、「語り部」の言葉を書物化したもの。文字化された記録文書をまとめた本とは根本的に異なるものなのだ。
この意義はとてつもなく大きい。
   古事記を読んで INDEX

それが理解し難く感じる方は、ソクラテスの主張を読み直すとよいと思う。
Plato[プラトン]「Phaedrus[パイドロス]」の後半の部分である。訳文が見つからないので、ご参考までに、素人が、その一部をいい加減に解釈してみた。間違っている可能性大なので、そこはご容赦のほど。[Benjamin Jowett英訳]

ヒトが発する、説得力ある言葉は、神々の言葉に劣ることはないと主張する人達がいる。
レトリックの革新者達であるTisiasとGorgias[487-376 B.C.]は、真実より、真実の可能性ありきものの方が意味ありと考えた。・・・
But shall I "to dumb forget fulness consign" Tisias and Gorgias, who are not ignorant that probability is superior to truth,
つまり、言語の力で、些細なことを大きな話に、大きな問題を小さなことにできるということ。
and who by force of argument make the little appear great and the great little,
もちろん、新しい事を昔風に描き、古い事を現代風語ることも可能。
disguise the new in old fashions and the old in new fashions,
何を語る場合でも、短くしたり、延々と続く表現形式にする方法論を発明した訳だ。
and have discovered forms for everything, either short or going on to infinity.

しかし、文字の効能を、本質に戻って考えて見て欲しい。
Enough of the art of speaking;
let us now proceed to consider the true use of writing.
There is an old Egyptian tale of Theuth, the inventor of writing,
showing his invention to the god Thamus,
who told him that he would only spoil men’s memories
and take away their understandings.

But when they came to letters,
This, said Theuth, will make the Egyptians wiser and give them better memories;
it is a specific both for the memory and for the wit.


文字によって失ったものはとてつもなく大きいのだ。
技法の発明者が、
それを利用する人達に、どんな利便性と被害を与えたかを
的確に判定できるとは限らない。

Thamus replied: O most ingenious Theuth,
the parent or inventor of an art is not always the best judge
of the utility or inutility of his own inventions to the users of them.


なにせ、記憶能力が衰微してしまったのだから。
文字の生みの親は、どうしても文字を愛してしまう。
文章では本来発揮できないのに、それをできるとみなしがち。

And in this instance,
you who are the father of letters,
from a paternal love of your own children
have been led to attribute to them a quality
which they cannot have;

文字を学んでしまうと、学ぶ人の魂に、「忘却」体質が植えつけられてしまう。
for this discovery of yours will create forgetfulness in the learners' souls,
because they will not use their memories;

自分外の存在である「書かれた文字」に頼るようになり、自分の内面にあるものを探り、そこから思い出すことをしなくなるのだ。
they will trust to the external written characters and not remember of themselves.

それは真実を引き出す力が萎えたことを意味する。
その発明したものは,記憶を強化することに繋がる訳ではなく,
単に、想起する手助けになるだけのこと。

The specific which you have discovered is an aid not to memory,
but to reminiscence, and

つまり、それが与えたものは、
真実の大枠というようなものではなく、
真実の表層である。そこには知恵はない。

you give your disciples not truth,
but only the semblance of truth;

たいして学んでいなくても、よく知っている風になったり、
they will be hearers of many things and will have learned nothing;
なにも知らないのに、博識な人に映る訳で、
they will appear to be omniscient and will generally know nothing;
本当は知恵など無いのに、知恵深き人として自分を押し出すから
結局、つまらぬ輩になってしまう。

they will be tiresome company, having the show of wisdom without the reality.


 文化論の目次へ>>>    表紙へ>>>
(C) 2014 RandDManagement.com