表紙 目次 | ■■■"思いつき的"十二支論攷 2015.7.21■■■ 十二支の「馬」トーテム発祥元を探る結論を最初に書いておこう。「馬」トーテムはペルシアの部族発祥と見る。 と言ってもイラン地域の人々を指している訳ではなくペルシア人系騎馬民族のスキタイ[斯基台]人。正確に言えば、そのご先祖。 中国とは、シルクロード[天山北路]ではなく、その北のカザフから満州まで続く草原の道での交流があったと見る。紀元前8世紀より古い話。 この草原の道の途中に控える匈奴の祖先も、馬の神を称していたと思われる。しかし、歴史的に見れば、それはそれほど古い民俗文化ではない。スキタイこそ、馬と金属武器をセットとして初めて保有し、絶大な武力を実現した張本人。だから初源。それだけのこと。 ただ、中華帝国から見れば、その部族のトーテムは最高評価に値する筈。 いい加減な仮説だが、小生は、馬は12トーテムの王者の位置に当てられたと見る。もちろん表面上の一位は「子」だが、実質的第一位は明らかに「午」なのである。 → 「十二支生肖仮説[改訂版]」 と言うことで、その辺りをまとめておこう。 1年で「午」の時期は太陽燦々の季節。文字的には直接「午」がそれを示す訳ではないが、ピークに差し掛かり逆転が始まるという意味で用いられたとされる。 と言うのは、「午」とは、「杵」の原文字だからだ。(馬に関係する轡とか鞭と見なした学者もあったそうだが、甲骨文字の検証でその手の見方は霧消した。)それがわかるのは、舂[うすづく,ショウ]=午/杵+廾[両手]+臼[うす]という文字が存在するからとのこと。 ・・・コレ、つまらぬ薀蓄話ではなく、意味深なのでご注意あれ。 舂の臼を作物の禾[イネ科穀物総称]にすると「秦」になる。つまり、そのような状況の土地という意味で、国名になっている訳だ。 そして、言うまでも無いが、秦の始皇帝の帝国こそ万人が認める中華モデル。それは、Sina/Chinaという言葉の語源でもある。 なんだ、そういうことか、と小生は感じた。「午」は麦秋そのもの。それを支配するのが「馬」トーテム族の末裔たるべしと暗黙に語っているとしか思えないではないか。 中華帝国モデルの根幹には、騎馬民族支配観ありき。毛沢東が鉄砲から政権が生まれると語った通り、今もって、その伝統は崩れていない。 しかし、馬が12トーテムの王者たる由縁はそこではなく、穀類生産の鍵を握る太陽との連携を示唆している点にあろう。「午」は、太陽神を支える生肖を抱える必要があったのである。 おそらく、中華の龍は馬トーテムと習合している。馬の如く走り、太陽神を乗せることになろう。これは、辰の竜とは本来は全くの別もの。それは鰐の抽象化だからだ、 にもかかわらず、水から生まれた竜と同一と強弁する必要があった。それによって、龍を心情的に共有できるから、巨大中華帝国実現が可能になるということで。 こうした「太陽神の乗り物」信仰は、中華発祥ではなく、スキタイ由来と思われる。道教の場合、天のメッセージを受け取る発想が根底にあるが、それは星からであり太陽ではないからだ。他の地域とは異なるのである。 (スキタイ以西のギリシアでは、太陽神の乗り物として馬が定着したし、[雄鶏を聖鳥とするヘリオス:4頭立て馬車で天を翔る.]南東のインドでは太陽神の金色の駒。[金髪三眼のスーリヤ/日天:7頭の馬が引く戦車に乗り天を翔る.]中華帝国は馬をそのまま取り入れることを避けたということ。) そうそう、日本には、馬は、"スキタイ"@西アジア→ペルシア→江南→日本というルートで入ってきたとの指摘があるそうだ。魏志倭人伝では牛馬は存在しないと報告されているし、史書類に、朝鮮半島から馬が渡来したと記載されているから、一見トンデモ論に映るが、よく考えるとこちらの説の方がまともである。 渡来したものは、どう考えても立派な大型の贈り物。つまり、日本にはそれ以前にも渡来してはいたが、限定地域にのみ存続で目立たずと見るだけのこと。言うまでもないが、駒(2才馬)にも達しない島嶼的小型。そう考えるのは、古事記から考えれば自然なこと。日本列島とは限らないが、スサノヲ命が逆剥して投げ込んだ話が掲載されているからだ。しかも、遺跡から馬の骨が出土している。古くから渡来していたのは事実。 古代の日本に広い野原があったとは思えないし、羊はせいぜいが奇種として宮廷で飼うだけとくるから、馬の実用性は薄かった。そうなるのは自然な流れと言えよう。湿地や泥地を苦手とする馬が走れるようになるのは、地域開発がかなり進んでから。そうなれば、馬は王権象徴乗り物の意味が生まれる訳で。 まあ、この辺りはどうとでも言えそうな感じであるが、重要なポイントは名称と意味付けである。日本では「天馬」的思想はどう見ても定着していないし、太陽神あるいは天帝との関連付も薄い。 しかも、朝鮮半島からの渡来というのに、素人が見るに、名称的関連は無いに等しい。古語は知らぬが、「Mal」ではいくらなんでも「うま」にはなるまい。もっとも、日本には、なんだろうが朝鮮語かアイヌ語に結び付けたがる専門家だらけなので、関連付けの理屈は色々あるに違いないと思う。こまったものだが、そういう社会なのだから我慢するしかない。 そうなると、「うま」という語彙が朝鮮半島由来でないとすると何処の言葉か。ここが鍵。 一番似ているのは、遠く離れた中東の民の言葉。ノアの洪水で生き残った馬は"Umma"だというから。コレはたして本当の話かネ。 それはともかく、呉〜安南にかけての「馬」の名称はご存知のように昔から「マ」である。 この語彙が現物と共に渡来したと考えれば納得である。倭語の「こま(駒)」とは高麗馬ではなく、小馬のことだろうし、「うま(宇麻)」とは「おうま」のことで、大馬もしくは、王ノ馬を指すのかも知れぬという気になるではないか。(そうなると、王ノシシ[肉]が「うし」だったりして。)少なくとも、朝鮮半島経由渡来なのに、そこでの名前を無視して、大陸南部の名称を冠するなどおよそ考えにくかろう。 (参照文献記載箇所) 「十二支薀蓄本を読んで」[→] 文化論の目次へ>>> 表紙へ>>> (C) 2015 RandDManagement.com |