表紙 目次 | 2015.9.24 漢字はオアシス都市国家の発明かも漢字を創作したのは、「説文解字」によれば、蒼頡[ソウケツ]とされる。そこには文字の歴史観も記載されており、"八卦→結繩→象形文字"との流れだという。 古者庖羲氏・・・《易》八卦。 神農氏・・・結繩為治。 黄帝史官倉頡、見鳥獸蹄迒之跡、 知分理之可相別異也、初造書契。 倉頡之初作書、蓋依類象形、故謂之文。 [許慎:「説文解字 卷一 序」100年] 小生は、蒼頡が創作したのは新文字の組み立てルールや、"正しい"象形文字の描き方であって、文字自体の発明ではないと考える。 官僚とされているからだ。 つまり、すでに存在している記号や象形をできる限り標準化したり、新たな文字造りに当たってのルールをわかり易くするのは得意中の得意。よさげなものを見つけて使うのも好きだろう。しかし、自ら新しいアイデアを創出しようと努力するタイプではないと見る。 つまり、こんな風に文字を合成することができると示したのだと思う。・・・ 公=八(=背)+ム(=私) 古者、蒼頡之作書也、 自環者謂之私、背私謂之公。 公私之相背也、乃蒼頡固以知之矣。 [「韓非子 五蠹 第四十九」] コレ、いわば、始皇帝の文字の大改革の前段とも言えよう。 一般には、始皇帝は焚書坑儒で有名。そのため、文革同様の思想弾圧一途の帝と見られがち。それはその通りではあるが、度量衡や交通規格に加え、文字標準化も行ったから、焚書坑儒はその徹底化の側面も濃厚なのである。 従って、そこに注目した紅衛兵達は始皇帝を評価したりして。日本の中国びいきの人達は違和感にさいなまれたりしたらしいが、もともと毛沢東は中華帝国主義者であるから当然のこと。 要するに、始皇帝の知識人処罰を褒めたのである。知識人達は、恣意的に部外者が読めない文字を用いたり、書を開示せずに自分達の世界で独占する状態をつくりだしている輩と断罪した訳。 まあ、そんな理屈で、現代の天子によって、トンデモ簡体字の世界が生まれた訳である。 話題がとんだか。 そうそう、普通は、蒼頡は神話の登場人物とされている。それは、黄帝の官僚とされているから、というよりは後世の絵画で4眼の人物として描かれるからかも。ソリャ化け物だと思ってしまうのだろう。しかし、尊崇対象なら驚くような表現ではない。釈尊の頭の形状が普通でないのと同じようなもの。実際、項羽廟で信仰を集めている実在人物の項籍[B.C.232-B.C.202年]にしても、4眼の絵も少なくないそうだ。大陸文化はそういうもの。天子の祖を人頭蛇の姿としている位なのだから。 ただ、"八卦→結繩→象形文字"の流れは無理筋では。 と言うのは、初期の象形文字とは考古学的には殷代の遺跡で見つかった甲骨文字だから。 亀甲獣骨占卜より、筮竹を用いる八卦占卜が先立つとはとうてい思えまい。どう見ても、ヒビ割れを見て天の声を聴きとる巫男の恣意性を防ぎ、占卜を規格化かつ標準化したものが八卦。 おそらく、周〜春秋戦国期に、亀甲獣骨は筮竹に代替されていったのだろう。筮竹が登場したのは、竹板に文字を記載する方向にあわせた可能性の方が高かろう。 八卦の「乾卦☰〜坤卦☷」表記にしても、それ以前にすでに文字が□のなかに収まるように記載する決まりがあり、それに沿って作られたと考える方が自然である。竹板(簡)文字のルールから生まれたということ。 それと、結繩から象形文字という流れも疑問。縄語彙とは一種の記号。それをわざわざ絵文字化する必然性は無い。少なくとも、記号的な文字が沢山生まれている筈だが、そのような状況とは程遠い。 それに、結繩では、縄目作りが誓約を兼ねていた筈。そんな文化に浸っている人々からすれば、文字は呪術的記号に映る筈。何をされるかわかったものではないから、利用を躊躇することになろう。特に、当事者の存在感を消し去ってしまう文字文化の受け入れは、"嘘"を呼び込むことになりかねず、嫌った可能性も。 そうそう、甲骨文字→漢字(象形文字)という流れも、50%正しく、50%間違いだと思う。甲骨文字の発展形は2つあると考えるからだ。そのままの発展形は竹板(簡)文字である。竹板だから、せいぜいが1尺(30cm程度)x2寸(約6cm)と言ったところだが、これに小刀で彫刻したもの。筆書きではない。この板を麻紐で繋いで、書物に仕上げた訳である。 これとは異なる流れが早々と分岐した筈。そちらは筆を使用。おそらく初期の筆は葦のペンである。渡来の筆記用具を工夫したもので、泥をインクにしたのでは。言うまでもないが、布の上に描いた訳である。発祥は文字ではなく、地図。麻布地図はオアシス人の発明かも知れぬが、この泥インクの質が向上し、馬尻毛を使用する毛筆が生まれ文字を描くようになったと見る。おそらく、サイジング技術(インクが浸み込まない)やインク定着技術も遊牧民の需要に対応してオアシス辺りのプロが開発したと思われる。交易品目の付加価値向上が図られる高度な経済が成り立っていたのはまず間違いないからだ。 (布から紙への転換だが、発祥は西域だった可能性が高い。ただ、その当初目的は、表現の美しさを狙ったものだったのでは。中華帝国はこの技法を取り入れ改良し大量生産化した訳である。技術を非公開としたので、紙は中国発明になっただけ。尚、考古学的には甘粛省放馬灘から出土した紀元前2世紀の「紙」が最古品とされている。印刷の緒も、西域だろう。拓本あるいは、印鑑捺印的な技術が生まれていない訳がないからだ。) しかし、布文字の登場で、甲骨文字的な彫刻文字が消えた訳でなく、英雄崇拝たる石標や邪を防ぐ境界石には、ある種の呪術象形文字が彫られていたと見るべきだろう。只、剥き出しの石であるから、1世紀も放置されれば風化して文字は消えてしまうから、そのような証拠が見つかることはなかろう。 こんな風に考えると、麻布上の初期の文字はもっぱら地図用の記号だったろう。次いで多くなったのが、交易契約の記載。重要なものは、生贄の血で書かれ、1枚は焼かれるか埋められ、1枚は証拠として保存ということになるから、すぐに文字的なものになろう。ただ、象形文字の規格が決まっていた訳ではなかろう。感性が違うから、部族毎に違っていておかしくない。 この風習が中華帝国に入れば、天子によって規格が統一されることになる。もちろん、威信ということで、麻素材は絹素材に変わる。そして、泥インク技術も徹底的に磨かれる。そう言えばお分かりになると思うが、金文文字が生まれたのである。これは中華帝国発案だと思われる。泥インクで盛り上がり文字を描く技法が開発されたのである。このお蔭で、容器や蓋の内面に凹んだ形の文字を鼎などの鋳造品につくれるようになったのである。 中華帝国官僚はこの2つの流れを統合したのである。絹布では統治用に不向きだから、常用として、竹板を推奨したということ。そこで、竹板彫刻が竹板墨書に変わった訳である。 どうかな、この見方。 尚、司馬遷の「史記」を信用するなら、倉頡が黄帝史官との話は、間違っているとも言えない。最初の王朝である夏の禹から記載が始まっているが、それより前に黄帝が存在する可能性を示唆しているから。つまり、禹より昔の話はさっぱり当てにならぬが、黄帝と呼ばれるなんらかの系譜はあったということ。つまり、「史記」に後から追加された司馬貞「五帝本紀」に記載されているような系譜で見てはいけないと言っている訳だ。 そんな時代に、倉頡という官僚が存在しており、漢字造りの標準化を行ったというだけの話。 それでは漢字はどこから来たのかといっても、なんの手がかりも無い訳である。 しかしながら、古代文字の系列は他に2つある。それらから考えるのも手であろう。 → 「経典文字に抗してきた日本語」[2011.1.21] → 「日本語だけは、類縁性検討に特別な方法論が必要そう」[2011.1.20] 一つは、石碑に刻まれたヒエログリフ等の古代エジプト絵文字を源泉とする系統。ただ、石刻だけでなく、草製成形シートのパピルスに記載した崩した書体が多用されてりたのではないか。基本は子音中心の音素文字だから、音節文字たる漢字とは流れが異なる。 これと同じ位古いのが、シュメールやアッカドの楔形文字。注目すべきは、記載方法。粘土の上に縦の枠を設け、葦で作った尖筆を押し当てて描くのである。こちらは音節文字。 従って、メソポタミア全域の部族に広がったにもかかわらず、音素文字にとって代わられた。記載は獣皮にインク。ペンはおそらく葦。 この2つの古代文字は横書きである。綺麗に横に文字を並べるにはスキルが必要だと思われるが、定規を使うか、予め下線を引いていたようである。 漢字は言うまでもなく縦書き。そして、一番古い文字はどうも亀甲獣骨への切刻記載のもののようだ。 これで、ピンとくるものがあろう。騎乗で手に持つなら、縦書きの細長いものが最適だからだ。その文字は天からの声でもあり、上から下に文字が並んで当然。そして、その記載物を柱に縛り付けておくこともできるし。 これはそういう環境の人々の伝達に向いた文字である。 と言っても、遊牧民は口承言語命に近い人々であり、土着系が好む文字は唾棄すべきものと見ていたかも。 しかし、交易の接点はオアシス都市である。そこは、様々な部族の出身者が居住している場所でもあったろう。様々な占卜が行われていたと思われるが、シャーマンによる獣骨焼が主導していた可能性は高かろう。信仰の共通化まではいかなくても、占卜は同じように行われるようになっておかしくなかろう。そして、そこには記号が記載されるようになるのも自然な流れ。 これが洗練されたものが、甲骨文字なのではあるまいか。 文化論の目次へ>>> 表紙へ>>> (C) 2015 RandDManagement.com |