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■■■ "思いつき的"仏像論攷 2015.7.24 ■■■

仏像分岐分類の補足(続)

仏像分類話の続き。
  仏像分岐分類の考え方  [→] [補足→]
  「蜘蛛の糸」に感じる仏像論 [→]

先ず、繰り返しになるが、・・・。
仏像分類がわからないのは、「天」という用語が明瞭に定義されていないから。「如来,菩薩,明王」像はいいとして、残りを「天」像とすると、「○○天」と呼ばれない像が多すぎ。・・・王や高級官僚らしき像、武将や筋骨隆々裸人(力士)、天女や唐の貴族女性、老人や童子、鬼や奇怪なの形相とか、鳥獣も入ることになる。
こういう場合は、常識的には「その他」と呼ぶべきだろう。それに、仏教以外(ヒンドゥー教)の神としている訳だし。(「天竺教」像という意味での「天」ということ。)

小生は、こうした分類観は避けるべきと考える。

釈尊は、悟りを開いて、すぐに説教を開始しなかった。他人に伝えねばと考えた訳ではないのである。しかし、翻意。説教すべしとのアドバイスがあったから。
そう呼びかけたのは梵天。
異教最高神の梵天を折伏したどころか、その逆と見られてもおかしくないシーンだ。

と言うことで、「天」について補足しておこう。

その前に・・・。

日本に渡来した仏教は、インドで生まれたが、中華帝国でその経典が大幅に再編改訂された。両者ともに、理屈好き。なんでもかんでも一括りの分類をするとは思えまい。
特に、インドはカースト制の社会。理解し難いほど細かな区分と言われている。そのような風土で、仏像だけは大雑把な分類をすることは考えにくい。
一方、中華帝国は天子が統治する官僚制の国。道教を見れば明らかなように、神々の世界にまで官僚制が貫徹しとり、その精緻なヒエラルキー構造には舌を巻く。仏像分類もしっかりした定義があってしかるべし。

「経典」で、どの程度の細かさを追求しているか、試しに、出家から悟りを開く迄の<解脱の道>での到達段階を見てみようか。
  声聞→縁覚→菩薩(願心→戒心→廻向心→不退心→定心→慧心→精進心→念心→信心→灌頂→法王子→童真→不退→正信→具足方便→生貴→修行→治地→発心→布施→持戒→忍辱→精進→禅定→方便→願→力→智→入法界無量廻向→無縛無著解脱廻向→真如相廻向→等随順一切衆生廻向→随順一切堅固善根廻向→無尽功徳蔵廻向→至一切処廻向→等一切諸仏廻向→不壊一切廻向→救護衆生離衆生相廻向→法雲→善想→不動→遠行→現前→難勝→焔光→発光→離垢→歓喜→等覚→妙覚)→如来

これなら、「天」にしても、細かな定義がある筈。はたして、それを一括してかまわないものか、検討する必要があろう。

となれば、六道から出発。

仏教は六道輪廻の世界からの「解脱」を目指す宗教。解脱すれば「如来」。解脱目前が「菩薩」なら、それ以外はすべて六道に所在することになる。
尚、この輪廻観は、一般的には、釈尊以前にすでに出来上がっていたと言われている。その古い区分を示唆しているのが、「八部衆」像。イの一番に出てくる「天衆」像とは、狭義の「天」像だろう。その次の「龍衆」像とは土着の蛇神信仰部族長だろうか。
   天衆,龍衆,夜叉衆,乾闥婆衆,阿修羅衆,
    迦楼羅衆,緊那羅衆,摩羅伽衆
   [@興福寺]五部浄,沙羯羅,鳩槃荼,乾闥婆,阿修羅,迦楼羅,緊那羅,畢婆迦羅

ここから、ヒエラルキー的な分類が急激に進んだというのが実情だと思われる。
実際、「二十八部衆(千手観音傘下)@三十三間堂,清水寺」だと以下の如し。「天衆」、「龍衆」、「夜叉衆」がゴチャゴチャと同居。
   密迹金剛力士(密遮金剛),那羅延堅固王,東方天,毘楼勒叉天,毘楼博叉天,毘沙門天,梵天,帝釈天,毘婆迦羅王,五部浄居天,五部浄居炎摩羅,沙羯羅王,阿修羅王,乾闥婆王,迦楼羅王,緊那羅王,摩侯羅王,金大王,満仙王(満賢夜叉),金毘羅王,満善車王,満善車鉢真陀羅[緊那羅王と重複],金色孔雀王,大弁功徳天,神母天,散脂大将(散脂夜叉),難陀龍王,摩醯首羅王,婆藪仙人,摩和羅女

想像にすぎぬが、「天-竜-夜叉---」という分類で思想的に力があったのは「天」だけだったということなのだろうか。竜衆は信仰対象にもならないのだから。
  典型例:八竜王@法華経賛嘆法会参列
   難陀,跋難陀,沙伽羅,和修吉,徳叉迦,阿那婆達多,摩那斯,優鉢羅

武力を重んじる排他的な部族勢力が信仰していたのが鬼神こと「夜叉衆」だろうか。思想的な影響力が小さいので、"護法善神化した天竺鬼神"として扱われているのだろう。
  典型例:八大夜叉大将(毘沙門天傘下:羅刹と共存)
   宝賢,満顕,散支,衆徳,應念,大満,無比力,密厳
思想的な共通性も無さそうだから、一括した分類の「夜叉」とせず、如来や菩薩、あるいは「天衆」の個々の守護役になってしまうのは当然の流れ。
  典型例:十二神将(薬師如来守護)
   宮毘羅,伐折羅(金剛力士),迷企羅,安底羅,羅,珊底羅,因達羅,波夷羅,摩虎羅,真達羅(緊那羅),招杜羅,毘羯羅
  十六善神(般若経典守護) = 四天王(帝釈天傘下)+十二神将
  八部鬼衆(四天王傘下)
   持国天傘下---乾闥婆,毘舎闍
   増長天傘下---鳩槃荼,薛茘多
   広目天傘下---那伽,富單那
  多聞天傘下---夜叉*,羅刹
     *:天夜叉,地夜叉,虚空夜叉
  実例の像@日光山輪王大猷院霊廟寺夜叉門
   阿跋摩羅[緑青色躯体]・・・無鎧,轉筋
   毘陀羅[赤色躯体]・・・求全身死人
   烏摩勒伽[青色躯体+膝象,破魔矢用+弓]
   陀羅[白色躯体]・・・奏楽

ともあれ、六道の最高位は、ご存知「天」。
そこに存在する神々こそ「天衆」だろう。本来は、これこそが、「如来-菩薩-明王-天」の「天」では。これが狭義。この辺りまでを「仏像」と見なすというのは実感的にはまとも。
問題は、それ以外をどう取り扱うか。
例えば、阿修羅とは「人間衆」の下位。ましてや、「地獄」の閻魔大王も。はたして、「天」でよいかナ。
当然ながら、鳥獣像は<畜生界>となる。
仏像の足で踏みつけられているのは、姿から見て<餓鬼界>のいずれかに当たるのだと思われる。

そのように考えれば、「童子」とは<人間界>の像となろう。剃髪していないので出家前ということで。
ともあれ、「天」扱いは難しかろう。<天上界>の「天衆」像ではないし、「天竺教」の仏とも思えないからだ。ただ、定義を考えると、<人間界>の像では無いかも知れない。師を決めているということは、すでに出家の意思が固まっているからで、それは脱六道開始姿と見なすこともできるからだ。(言うまでもないが、出家者は、冒頭に述べた、「声聞→縁覚→菩薩→如来」のどこかのグレードに該当する。)
ついでながら、興福寺で大人気の阿修羅とは<修羅界>に属す。よく見かける閻魔大王は<地獄界>の主的存在(「夜摩天」から出張か?弥勒菩薩の如く。)。これらの環境は<人間界>より下位に位置付けられている。「第六天"魔王"波旬」は「天衆」の仏像だが、こちらも、はたして同じように呼んでかまわないのか、気にならないか。

こうした考え方を避けざるを得ないのは、わからないでもない。「明王」とはなんだかわからなくなるからだ。

6道を整理するとこんなところか。(素人による引用なので、間違い多き筈。ご注意のほど。)

上】---3界28天
 ■無色界■---"四空処天"
 非有想非無想処/有頂天
 無所有処
 識無辺処
 空無辺処
 ■色界■18天
 [第四禅]---"首陀会天"
  五浄居天(色究竟天,善見天,善現天,無熱天,無煩天),廣果天,福生天,無雲天
 [第三禅]
  遍照天,無量浄天,少浄天
 [第二禅]
  光音天,無量光天,少光天
 [初禅]---在 "梵天"(「」の代表)
  大梵天,梵輔天,梵衆天
 ■欲界■---"六欲天"
 他化自在天---在 第六天"魔王"波旬
 化楽天
 兜率天---在 "弥勒菩薩"
 夜摩天---在 地獄の王と似た王
   ↑仏像と呼んで全く違和感なき世界
   ↓魔の世界と呼べないこともなき世界
 利天---33天
  善法堂天,山峯天,山頂天,喜見城天,鉢私他天,倶托天,雑殿天,歓喜国天,光明天,波利耶多天,離険岸天,谷崖岸天,摩尼蔵天,旋行天,金殿天,鬘形天,柔軟天,雑荘厳天,如意天,微細行天,歌音喜楽天,威徳輪天,日行天,閻摩那婆羅天,速行天,影照天,智慧行天,衆分天,曼陀羅天,上行天,威徳顔天,威徳炎輪光天,清浄天
 四大王衆天---よくみかける「
  [東方]持国:インドラ配下
  [南方]増長:インドラ配下
  [西方]広目:インドラ配下
  [北方]多聞 or 兜跋毘沙門天:財宝神クベーラ
人間】←人間像!
   ↓この下を「天」部"仏"像と呼んでよいのか?
修羅
 羅喉阿修羅王,婆稚阿修羅王,羅騫駄阿修羅王,毘摩質多羅阿修羅王
畜生
餓鬼
 身,針口,食吐,食糞,無食,食気,食法,食水,望,食唾,食鬘,食血,食肉,食香烟,疾行,伺便,地下,神通,熾燃,伺嬰児便,欲食,住海渚,執杖,食小児,食人精気,羅刹,火爐焼食,住不浄巷陌,食風,食火炭,食毒,曠野,住塚間食熱灰土,樹中住,四交道,殺身
地獄】---8大地獄に王が存在
 秦広王,初江王,宋帝王,五官王,閻魔王,変成王,泰山王,平等王,都市王,五道転輪王+蓮華王,祇園王,法界王


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