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「我的漢語」講座

第13回 日本創作漢語 2010.8.25
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〜 日本創作単語が漢語圏発展の礎となったのは場違いない。 〜
 “economy”の訳語“経済”のモトネタは「皆有経済之道、謂経世済民」。しかし、この単語、本場では使われておらず、日本製と考えられている。日本で広く使われ始めたため、漢語圏全体で普通に使われるようになったのである。
 まあ、大東亜共栄圏云々で考えるまでもなく、当然の結果である。
 日本の場合、江戸幕府が鎖国をしていたにもかかわらず、西洋文化については勉強熱心だったから、漢文の古典から次々と訳語を作り出す習慣ができあがっていた。辞書も発刊されていたのである。そこに、明治維新で怒涛のように西洋文化が流れ込んだのだから、膨大な新語が生まれることになった。その用語を使って新しい社会の設計に邁進した訳である。
 もちろん、大陸にも進取の気性を持った勢力がいたが、ことごとく弾圧され続けた。識字率云々のレベルではない社会で、これだから、西洋の知識を広げるどころではなかったのが現実。
 孫文も、創作の漢字単語で政治を大いに議論する日本の状況にさぞかし驚いたに違いないのである。日本からの“単語”の大量輸入を図ったのは、極く自然な流れだったろう。なにせ、日本製と言ってもモトネタは中国の古典なのだから。

 ただ、日本の創作は単純な造語だけでもなかった。日本式近代化や民族的共産主義といった具合にコンセプトの種類がわかる語尾を加えたり、その複合化が簡単にできるように工夫したことが大きかった。このお陰で、西洋の考え方が俄然取り入れ易くなったのは間違いない。
 こうした日本創作の訳語を受け入れず、独自の用語を作るなど馬鹿げた話である。
 その結果、国名である“中華人民共和国”にしても、人民や共和国といった日本創作単語を使うことになったという訳だ。社会問題とか生産力といった用語も、すべからく日本発と考えてよかろう。政治・経済から、科学・芸術まで、日本からの輸入単語の数たるや膨大なものであろう。一部気にいらないものは、変えたに違いないが、それは例外的だと思う。

〜 日本は、苦手なコンセプトだと、漢字の訳語作りを避ける。 〜
 ただ、日本では、漢字化を嫌った西洋の言葉がある。一応、海外文化に直対応したいため、カタカナでそのまま表現した方が便利ということにはなっている。ところが、カタカナ外来語は、読みが少し違っていたり、略語化されることが多く、元の言葉としては通じなかったりする。便利というのは屁理屈臭い。
 例えば、“spam”なら“迷惑メール[垃圾邮件]”とすることはできるが、“click”を“舌打ち”と呼ぶ訳にもいかないのはわかる。だから、面倒だし、そのまま“クリック”でということになるという説明はわかり易い。しかし、点击のように、新しく作ることもできた筈だ。この分野では、カタカナ言語が嬉しい人が余りに多かったと見る方が妥当では。
 従って、その逆の分野もある。強奪された2億円の“ティアラ”をわざわざ“髪飾り”と呼ぶ人もいるのだ。これは流石に違和感がありすぎる。妇人用装饰冠なら、まあ正当な表現だが、これではどうもね〜となるのが日本人的感覚ではないか。

 そんな感覚を考える上でわかり易いのが、古い単語だが“インテリ”。
 “ハイカラ”同様に、日本ではもう使われなくなっていそうだ。下手すると、インテリ・マウス[智能鼠标子]のことかと言われそうだが、高年齢層ならよくご存知の単語だ。紅衛兵の時代に良く見かけたからだ。そう、、知识分子だ。この単語には唸らされた。よく考えれば、なにも“インテリ”という単語を作る必要もなかった訳だ。“分子”は不味いだろうが適当な用語をもってくればよかったのである。しかし、日本の知識人は、それは面白くなかったのである。この日本人体質は認識しておいた方がよかろう。

 それがもっとわかるのが、イデオロギー、フェミニズム、プライバシー。これらについてはカタカナ表記を譲らないし、お得意の省略形にもしない。居心地悪き言葉なので、日本語化は受け入れ難いという深層心理がありそう。
 中国では、それぞれ、观念形态女权义義隐私(权)である。

 それと、感覚的によくわからない用語も、カタカナになる。典型はコミュニケーションだろう。もちろん、訳語はある。但し、それはC&Cの“通信”だけ。ヒト間は以心伝心と阿吽の呼吸で心が通うとされるから、訳語を作ることができないのである。狭い社会で互いの気持ちを理解するスキルを叩きこまれるのだから、コンセプト自体が理解できなくて当たり前だ。
 中国は全く違う。コミュニケーションは肌身感覚の筈。多民族・多文化・多言語社会で、漢字で意思疎通を図ろうというのだから。
 漢語は沟通と、実に見慣れない漢字だが、よく見れば“溝通”である。思わず納得。

 そうそう、中華発想と日本発想の違いが出る言葉がある。コンプレックスだ。漢字では劣等感とされるが、英語では優越感でもよい筈。しかし、日本語英語はかならず前者。後者は漢字でしか使わない。中国語では、両者ともに漢字表現するしかないとはいえ、表現が露骨。优越感自卑感
 ○○感という単語はたいていは“Made by Japanese”言葉だが、劣等感では納得し難かったということだろう。正当である。

〜 アイデンティティを一寸考えてみようか。 〜
 そうそう、日本人が一番苦手で、何を意味するかよく理解できないコンセプトもある。
 特に苦手なのが、アイデンティティ[认同]。(“同定”という言葉を使ったら、年季が入った編集者にこんな言葉は初耳と言われたことがある。)
 列島に住む、日本語を話す混血モンゴロイドなら自動的に“なんとなく日本人”とされてしまうのだから、海外と接しない限りそんなものに関心が生まれる訳もない。
 世界のどこを見ても、多言語・多人種状態であり、対立的な宗教観・衣食住文化を抱えながら生きている訳で、生きていく上の原点でもあるが、日本ではそんな意識は極めて希薄なのである。
 中国大陸の場合、文化的にはバラバラと見てよいだろう。东北(満洲)、华北、华东/华中、华南、西南、西域(丝绸之路)、西藏(吐蕃)は全く別。その実態は、大昔から五花八门。従って、漢民族支配の大国であっても、ソビエト“連邦”のような大ロシア民族主義を基底にした異民族国家を含めた連合国のような国家を実現するのは難しかろう。ただ、始皇帝の時代から、国を纏めるのは大変だった訳で、元(蒙古)や清(満洲)のような非漢族に平定された時期もあるし、地域屹立のことも。皇帝であっても、人民を飢えさせたりすれば、即、消滅の憂き目という歴史。現代で考えると、人民を纏める核は一つしかなさそうだ。偶像“毛主席”を掲げ、簡体字による言語標準化を推し進めてきた、中国共産党である。・・・天安門広場で、ケ小平打倒を叫んだ瞬間、民主化運動がどう扱われるかはわかりきった話だったのである。一党专政を崩す訳にはいかないのである。
 周囲の国々との和平共处と言うのも建前に近かろう。ロシア、北朝鮮、日本、ベトナム、フィリピン、ブルネイ、マレーシア、ネパール、インドとどの国とも領土紛争をしたがる国として有名だが、それは中華の歴史そのものでもあるからだ。水火不溶状態化はお得意なのである。
 日本和中国是一衣带水的邻邦が成り立つのはどういう時か、歴史を振り返って考えておく必要があろう。

〜 ついでと言っては何だが、朝鮮半島の話をしておこう。 〜
 このように考えていけば、中国政府が、朝鮮の面子を傷つけるなと言うのは、勝手な言い分ではあるが、一理あることもわかろう。
 朝鮮半島の歴史とは、互いに対立する4つの文化圏を、周囲の強国の顔色を伺いながら、言語と紙幣で纏めようとした苦闘の結果にすぎない。伝承の神話自体が中国渡来民を示唆するようなものだったりするから、自然発生的なアイデンティティは生まれようがない。と言って、長く続いて近代化を遅らせることになった李朝賛美もつらいものがあろう。国旗にしても親日開化派が訪日途中に作ったと言われている訳だが、おそらくこんな話をするだけで不快になるのではないか。そんな精神状況だから、目立つことをしたいし、なんであろうと我が民族の栄光に繋げて叫ぶことになりがち。当然、その内容は作りものにならざるを得ないから、隣国から見れば胡散臭さ紛々の勝手な主張に映る。中国の為政者は、そこをつつくと碌なことにならないから、適当に褒め称えて、実利をとるのが一番と考えている訳だ。
 韓国マスコミが北京オリンピック開会式の予行演習画像を配信するという常識では考えられないトンデモ騒ぎを巻き起こしたが、こうした体質は変えられぬというのが中国的見方と言えよう。中華帝国の歴史から学んだ教訓なのだろう。
 もともとバラバラなのだから、共有できるものは排他感情しかあり得ないということでもある。
 ここを理解しない限り、いくら親睦を重ねたところで、信頼関係醸成は難しいということ。
[簡単に言えば、世界的に見て異端的な考え方をすることで独自性を発揮する体質ということ。巨大パチンコ店チェーンを作り上げた韓昌祐会長の発言がわかりやすい。・・・「日本に永住するならば日本国籍を取得すべき。世界中のほとんどの人間が生活しているその国の国籍を取得している。在日韓国・朝鮮人は帰りもしないのに、日本国籍取得は嫌だというのはおかしい。在日韓国・朝鮮人というのは世界で最も立ち遅れた民族である。本国よりも立ち遅れた民族だ。と常に私は力説しているのです。」「マルハンのマルは『日の丸』でハンは『恨(ハン)』であり、日本に対する恨みから社名を付けたと韓国の新聞に書かれたが、誰がそんな変な意味の名前を付けるのか。パチンコ玉の丸さ、地球の丸さから『マル』を取り、それに私の名前の『韓(ハン)』をつけたのです。」](Wikipediaだから、そのつもりで.)

〜 知恵の生み出し方の用語も気にならないか。 〜
 話が脱線したが、元に戻して、もう一つ単語をあげておこう。
 インスピレーション[灵感]である。
 こちらは日本人の宗教観から、漢語化が嫌われたと睨んでいるのだが、どうだろう。理性的に、重箱の隅をつつくような分析はお得意だが、概念的思考で感性を働かせ知恵を生み出すのはお嫌いな方が多いということなのでは。
 主観v.s.客観だけは教育で教え込まれるが、インスピレーションについては黙して語らず。創造性について学ぶことは無いのだ。それは芸術に任せてしまうのが普通。ずいぶん偏った教育だと思うが、皆知らん顔。
 必然は偶然を媒介として発現するという弁証法の世界を認めたくないということかな。
 そんなこともあり、巨視的・微視的[宏观・微观]も、マクロ・ミクロというカタカナ言葉の方がすわりがよいようだ。それもわからないでもない。対象“範囲”を1平米から100平米に広げたところで、分析的に眺めている限り微視的の範疇なのだが、そう言っても理解できない人だらけ。巨視的に眺めることは苦手というより、体質的に馴染めないと言った方が当たっていそうだ。細かなところにこそ神が宿るという感覚があるからかも。
 日本独自のトンデモ論を平然と開陳する自称マクロ経済学者がいたりするのも、この風土ならではと言えそう。変な方向に引きづられかねないから、日本では、ミクロ経済学者に、大局観で経済を語ってもらった方がよいかも。

 最後にもう一つ。シンクタンクも面白い用語だ。日本では、利権集団御用達の“お座敷シンクタンク”だらけらしいから、とても日本語化できる状況にないのかも。既得権益層を支援し、新興勢力を沉降させる坦克[戦車]の役割を果たせば大繁盛間違いなしとか。
 中国ならさしづめ、“毛”思想罐かと思いきや、智库/智囊团。成る程。そうあって欲しいものだ。
 まあ、知己知彼の精神で少し考えてみることをお勧めしたい。

 と言うことで、第十三回はこれまで。
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