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「我的漢語」講座第22回 河西走廊 2010.11.18 |
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西域はトルコ民族系のイスラム遊牧民の民族がバラバラ存在するという話をした。そして、ここは、突厥地帯とも。 だが、突厥地帯をマクロでみれば西はパミール高原から黒海に至り、東はモンゴルまで。さらにその遠戚は満州から朝鮮半島に至る。ここは、遊牧民族文化であり、その核が突厥なのである。そして、ロシア(スラブ民族系)と中国(漢民族)がそれぞれ西突厥と東突厥を分割支配する構造にすることで、巨大国家突厥復活を阻止したと見ることができよう。 と言うことで、西域から東へと眼を移そう。そこで、西域から蒙古へと移る場を少々観察しておこう。
上に示したのは、遊牧系民族ベルトだが、これでは中国の核である漢民族とどう繋がるか見えてこない。しかし、実はそんなことは自明なのである。漢民族の中心は“中原”だからだ。それはどこかと言えば、【高地】“内蒙古高原”の南。【高地】“黄土高原”である。 よく考えればわかるが、ここらは砂漠を除けば、遊牧以外には向かない地域であり、ソ連の支援をうけて独立した“外”と、中国自治区に含まれている“内”に分ける必然性などない。あくまでも政治上の都合。
中原の漢族から見れば、蒙古高原のモンゴル族や、超高度地域を根城にするチベット族に係わることなく西域と交易したい訳だが、それは簡単なことではないのだ。 〜 “敦煌”は、覇権争奪戦の一大要衝地と言えよう。 〜 従って、长城は北からの脅威を防ぐだけではなく、西域へのルート確保にも必要だったのである。その西の外れに繋がり、西域への関門となったのが、ご存知玉门关だ。あるいは、阳关の方が親しみがあるか。それよりは、敦煌と言った方が通るかも。まあ関所名は漢文でお馴染みである。 「送元二使安西」 王維(699〜759年) 渭城朝雨裛輕塵 客舍青青柳色新 勸君更盡一杯酒 西出陽關無故人 この時代から、西域の安西に出先機関があったことになり、中国は西域中途も一部支配していたようだ。(現在の西部大开发的重要基地 库车[クチャ]。) 漢詩の世界に馴染んでいるから、情緒感で酔ったりしかねないが、現実世界はそんなものではない。敦煌のすぐ西は、塔克拉玛干沙漠(タクラマカン)へと繋がる地域。そこは幻の都楼兰があると言えば聞こえはよいが、核実験場 罗布泊(ロプノール)の地。 いうまでもなく、ここは丝绸之路の要衝。 都からは先ず蘭州に出る。黄河を渡れば北西にほぼ一直線。ここが、“河西走廊”である。 ★敦煌[沙州]★−酒泉[肅州] −張掖[甘州]−武威[涼州]−蘭州←・・・←西安[长安] 敦煌から先の西域で道は3本に分かれる。思うに、敦煌にまとまっているのは漢族支配が確立された結果だろう。“河西走廊”はモンゴルやチベットの発想ではない。おそらく天山山脈北側のハミへは、蒙古高原から直接繋がる道が使われていたに違いない。そして、クンルン山脈側へは山越えでここに入る道があったと思う。漢族はトルファン、クチャまで進出して天山山脈南の道を押さえるべく、突厥族と争っていたと見るのが自然。
〜 “河西走廊”は4民族がモザイク状に残っているのでは。 〜 どう考えても、“河西走廊”とは、交易の路ではあるが、戦乱の道と考えた方がしっくりくる。 「從軍行」 王昌齡(唐, 8世紀前半) http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/p93.htm 青海長雲暗雪山、 孤城遙望玉門關。 黄沙百戰穿金甲、 不破樓蘭終不還。
当然ながら、チベット系民族も超高度地域だけでなく、高原にも展開した筈。その後裔が存在することになる。 回教徒といえば、突厥系とみなしがちだが、例外的にチベット系イスラム教の少数民族が高原地帯に存在するのである。尚、内蒙古に隣接する寧夏回族自治区の民族の出自ははっきりしてないようだ。場所からみて、突厥系ではないと思われるが、西域からの外来民族であるのは間違いなさそうである。。 というか、“河西走廊”を制した西夏とはチベット族であり、その名残りがこの辺りの高原で生活しているということ。 〜 河西走廊・黄土高原・蒙古高原のぶつかり合う地は中国政治の中心である。 〜 右上の図表は、チベット族から見たこの辺りの概念的地形。もちろんクンルンの南が世界の屋根ヒマラヤに繋がるチベットである。黄河を直線状にしているが、実態としては、流れが大きく変わる地帯である。山岳地帯を流れているのだが、広い湿地帯も存在している。
出立の地は【中低地】江西の瑞金である。そこから、【高地】に入り、【高地】づたいに南から北へと進み、ようやくこの地に辿りついたのである。中国を国として一体化できる根拠は【中低地】の華北〜華南ではなく、この【高地】である。ここを治めることができてこその大中華帝国である。云贵高原〜四川盆地〜黄土高原と、蒙古高原〜西域をまとめあげることなくしては為政者(黄帝)の資格に欠けると見なされるのは間違いないところ。 延安に向かう紅軍の最後の難所は“六盤山”。伝成吉思汗病没地。富士山程の高さ。ちなみに、この辺りは回族の地。そこを踏破して、ようやく国民党打倒の意気が急速に高まってくるのである。おそらく、現代中国で、そんな逸話に繋がる次の詩を知らぬ人無し。 「清平樂 六盤山」 毛沢東 1935年 http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/maoshi25.htm
天高雲淡、 望斷南飛雁。 不到長城非好漢、 屈指行程二萬。 六盤山上高峰、 紅旗漫捲西風。 今日長纓在手、 何時縛住蒼龍? しかし、一番の苦難はここではなく、黄河上流の湿地帯ではないか。貧農出自の軍隊を仕立て上げ、驢馬さえ通行に難儀するような箇所を行軍したのである。それあってこその、“不到長城非好漢”。 日本の観光本を見ると、こうした感覚とは無縁である。 西安・・・大雁塔、華清池、兵馬俑、等。 ↓・・・五丈腹[諸葛孔明没] 天水・・・麦積山石窟 石窟好きはさらに武山へ シルクロードを辿りたいなら、さらに蘭州まで足を伸ばしたくなろうが、鉄道か空路だろう。もっとも、そこは一大石油コンビナートの工業都市に変貌してしまったが。ちなみに、鉄道は陇海铁路である。西に接続していくと、その終点は鹿特丹( ロッテルダム)。ここで取り上げているのは西安〜咸阳〜宝鸡〜=〜天水〜兰州とという区間でしかない。ご想像がつくと思うが、穿越秦岭六盘山である。 それにしても、毛沢東の人民戦争感覚はたいしたものである。黄河大曲の理由はそこが急峻な地形であることを意味している。つまり、自然が作り上げた要塞的な場所ということ。土着民でなければ簡単に攻め落とせない訳だ。しかも、民族が入り乱れる地であり、統一的な思想は欠落している。歴史を学んでいれば、覇権を狙うチャンス大有りと感じて当然。 もともと、漢民族の定義は曖昧。漢字を用いて意思疎通が図れ、食物タブーが少ないといった程度で“漢族”なのでは。換言すれば、55の少数民族では無いというだけのこと。 と言うことで、地名を学ぶ回になってしまったが、第二十二回はこれまで。 |
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