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「我的漢語」講座

第24回 四夷  2010.11.25
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 実は、前回の「河西走廊」だが、下図のように、西域から蒙古へと東方に話を進めるつもりだったがつい脱線してしまった。外れついでに、もう一歩。
西←  【山岳地域】【高地】【山間部】【中・低地】【沿岸部】【海洋・島嶼】  →東
帕米爾高原
 
兴都库什山脉
西域 砂漠外蒙古高原
−[砂漠]−
内蒙古高原
大兴安岭山脉東北平原
(満州)
朝鮮半島[日本海] 日本 [太平洋]

 話が“河西走廊”になったのは、言うまでもないが、ここが民族ぶつかり合いの原点とも言える地だからである。言い換えれば、中国大陸の文化を考える上で外せない。
 と言うことで、今回はその続編として、史実にこだわらず、“四夷”について書いてみよう。イマジネーションを働かし、思い巡らすだけの作業だが、それだけでも様々なモノが見えてくる。

 言うまでもないが、
      “四夷”とは、 西戎 东夷 北狄 南蛮のこと。

 ただ、これは大昔の用語。
 それを各王朝が、自分から見た東西南北の敵対民族を指す用語に使った訳だから、定義は曖昧になりがち。当然ながら、蔑視用語化するが、もとからそうだったのかは、疑ってかかる必要があろう。
 小生は、このコンセプトは生態史観的なものと見ている。なかなか優れた用語だと思う。ここでは、その感覚で、イマジネーションを駆使した“解説見本”をご提供しよう。・・・

西戎こと、突厥族は武力侵略を旨としていた訳ではないと思う。
 まず、西戎だが、これは西域的民族ということだと思う。現在に当てはめれば、イスラム教スンニ派で、トルコ系言語を使う“スタン”(国家)や中国の新疆自治区に住む人々が該当する。一言で言えば、すでに取りあげた、突厥族。
 この突厥族だが、「河西走廊」でおわかりのように、漢族にとっては極めて重要な相手だったのは間違いない。実際、ここを通して、西瓜、胡桃、胡椒、二胡が入ってきた訳だし、超上質な皮毛を黄土高原の民は垂涎の眼で眺めたろう。ところで、この“胡”だが、波斯人(ペルシア)とされている。ペルシア文化が卓越していたからかも知れぬが、突厥族を恣意的に無視した解釈で合点がいかぬ。東胡=突厥人、西胡=ペルシア人とすべきだろう。実際にそう言われているのかは素人にはなんとも。
 尚、“胡”人という名称はヒゲを伸す人種という意味であるのは間違いない。髭とは、胡子なのだから。今でも、髭無しは男とみなされない文化は中央アジアから中東辺りでは色濃いものがある。
[尚、ペルシアは現在の伊朗(イラン)だが、この名称はAryan(アーリア)の国という意味。]

 言うまでもないが西域は荒漠[沙漠] (砂漠)が目立つ乾燥高原地帯。従って、現代から眺めれば、生活環境が悪い地域に映る。というか、実際、そういうところから聖書の哲学が生まれたことを思いやった、和辻哲郎の考え方には納得性がある。
 しかし、梅棹型思考の、アジアの中心部に乾燥地帯を支配する牧民[偏は三水である。]が存在するとの発想はどんなものかね。この民族は、水と草がありそうな場所を探しながら家を移動している民だが、東西の定居している農耕民を侵略する民という見方にはどうしても馴染めない。
 特に、動物もヒトも暴力的に支配するのが、この過酷なの結果と考えてよいのかは疑問。飛躍がありすぎると思うが。
 まあ、昔から、“胡”はよくわからなかったのである。それは、一笔胡涂账 [俗語で“訳のわからぬ話”]という言葉の存在でもわかろう。

 小生は西域を眺めていて、全く逆に感じた。
 まず、乾燥地帯を一括りにして「過酷な地」という見方が疑問。そもそも、砂漠に生活できる訳がないのであり、この見方なら、荒れる海に囲まれた島国を過酷な地と考えざるを得ない。
 おそらく、古代で一番恵まれていた環境は乾燥地帯である。言うまでもなく、それは砂漠周囲の绿(オアシス)地域。水質の良さはピカ一なのは間違いあるまい。乾燥地帯にもかかわらず、そこだけ豊かな緑が広がるのだ。生活レベルは極めて高かったろう。大きなオアシスなら、それは城邦(都市国家)と考えてよかろう。水が枯れたり、破壊的な侵略を受けない限り繁栄が続くことを約束された地と言ってよかろう。

 もちろん問題も抱えている。水資源が限られている点だ。水資源がまかなえる以上の人口を増やす訳にはいかないのである。
 しかし、住み易ければどうしても人口は増える。従って、交易のための移住や、草原での遊牧という形で人口圧力を緩和するしかない。その結果、都市国家ネットワークと独立遊牧団の一大経済圏が出来上がったに違いない。こうした経済システムを仕上げた民族を自動的に大規模な侵略型国家像に当て嵌めるのには無理があるのではないか。

遊牧民と、狩猟民、農耕民との違いを間違わないようにしたいものだ。
 我々が、特に注意すべきは、全く異なる概念のイメージを、牧民にダブらせがちなこと。そういう意味では“騎馬民族”という用語の不可思議さにも気付くべきだろう。現代風に描けば“核ミサイル保有民族”とでも言えるのかも。そういう定義にどんな意味があるか考える必要があろう。

 まずおさえておくべきこと。
 それは、遊牧民の飼育する家畜とは商品(肉)ではなく、商品(乳や毛)の生産手段(工場)であると言う点。道具(武器)を用いて森で動植物を調達する狩猟民とは全く違う生活をしている訳である。
 オアシスの緑の周囲の僅かな草地を生産手段とする牧畜から派生し、次第に独立化した一団と見るべきだろう。そんな一団に被支配感は生まれようがないし、草地と水がある限り他民族を暴力支配する必然性は考えられまい。しかし、狩猟民からみれば、遊牧民の家畜は狩の対象動物でしかないし、生産手段の森を焼き払い草原にしたがる輩は、神の恐れを知らぬ悪魔に映ったのは間違いあるまい。遊牧産業が発展すれば自動的に摩擦が生じる訳だ。遊牧民にとっては、武器には武器というだけのこと。
 繰り返すが、遊牧民は基本的には肉食ではない。一頭に1匹の仔しか産まない動物を食べれば飢えること必定。特別な時以外に屠殺することは無かろう。一ダースもの子を産む豚や年中産卵する鳥類を、住居近辺で農耕労働の片手間に家畜として育てる漢族のが肉食系なのである。ペットのようにして飼うが、屠殺して食べる対象でしかない。
 従って、遊牧民に肉食習慣が入ったのは、圧倒的に食糧生産性が高い黄土高原を制圧したか、逆に漢族に支配された結果と見るべきだろう。
  [ご参考→] 「日本人こそ、肉食民族で狩猟民族なのかも。」 (2010.10.29)

 こう考えると、もともと暴力的支配が必要なのは、実は、遊牧民族ではなく農耕民族の方だとも言える。遊牧は密度が高すぎない限りは、小部族が移動するだけで、水飲み場と草地争いが発生しない限り自立型の防衛で十分。
 ところが、広くて乾燥しがちな高原地帯での農耕生活はそうはいくまい。
 生活の鍵は一に水利権だからだ。どの農耕地を占有でき、どこに優先的に水を流すかが自動的に決まる訳がない。オアシスとは違い、こちらはこの意思決定一つで生死まで決まりかねない。まさに真剣勝負の世界である。安定した社会が実現できなければ農耕どころではなくなるから、暴力的支配は最初から不可欠であるし、それは衆人一致の大原則だろう。これは中・低地の湿潤で水が豊富な地域とは全く違うのである。

 ただ、オアシスでの農耕とは違い、河川があるから、治水と開墾で生産能力の急拡大ができるという大いなる優位性がある。しかし、それには、経営を大規模化させ、人々を武力で制御する必要があろう。
 おわかりだと思うが、乾燥地帯の農耕民は武力を内在している民族ということ。そして、痩せた草原を耕地にしていくのがレゾンデートル。当然ながら、遊牧民とは利害が反する。草地を減らされたのではたまったものではない訳で、農地破壊・集落消滅を図るのは必然と言えよう。

 こう考えていくと、大幅に生産余力がでてきた農耕民族に土地を奪われていく事態に直面した遊牧民族にとって、農耕民との共存は無理と判断する時が来るのは必然。生き残るためには農耕民族支配を目指すしかなかろう。だが、騎馬のスキルという強みがあるだけで、組織はバラバラ。従って、それをまとめる独裁支配の仕組みを作る以外に手はなかろう。それを高原の農耕民族からしてみれば、西戎恐るべしとなる訳である。そんなことが発生する前に制圧せねばとなるのは当たり前。
  「涼州詞」 王翰(687〜726年)  [涼州: 河西走廊の武威]
    葡萄美酒夜光杯
    欲飲琵琶馬上催
    酔臥沙場君莫笑
    古来征戦幾人回

 おそらく、その感覚は今でも持続していよう。従って、中央政府は、遊牧生活者の定着化を強硬に進めているに違いない。しかし、おそらく無理筋。水の乏しさ故の遊牧だからだ。定着化とは水戦争の火種をつくるだけ。
 ただ、遊牧民は生活上どうしても部族主義になる。カリスマでも登場しない限りはまとまることは考えにくい。小規模抵抗はあっても、反乱にまではいくまい。それを漢民族は百も承知。

北狄は獣肉を焼く人達だろう。
 勝手に想像を巡らしたが、この発想でいくと、モンゴル人は元祖遊牧民ではなく、突厥族に遊牧民化させられた狩猟民である可能性が高い。隣り合う遊牧民であるにもかかわらず、会話が通じないからである。
 それに、原点らしき少数民族が域内に存在するのだ。蒙古高原北西部の大兴安岭山脉で、狩猟中心に生計を立ててきた通古斯(ツングース)系。こちらは、蒙古と言語が似ているのである。
  蒙古族・・・モンゴル族
  鄂伦春族・・・オロチョン族
  鄂温克族・・・エヴェンキ族/オウンク族

 森で生計を立てていた民は、遊牧民に森を焼き払われる動きには決定的に弱い。監視する訳にはいかないから、事実上黙認だ。狩猟民がこれを止める手立ては暴力的支配しかない。しかし、支配が成功したところで狩猟の生産性は低いから、結局のところ、狩猟民の遊牧化しかあり得まい。

 おそらく、北狄とは、北側森林地帯の狩猟民だったと思われる。文字が獣偏に火でもあり、寒冷地帯の森の住人に似つかわしいと言えよう。
 冒頭の西域から東に繋がる帯で考えれば、蒙古高原から朝鮮半島まではこのタイプの一族の末裔と見ることができるのではないか。文化は変わってしまったが。その意味では“騎馬民族”という呼称は含蓄ある定義と言えよう。
 民族の変質を嫌い、狩猟民族文化を固持したい人達は、山で細々と生き残るか、より寒冷な北の森林地帯に移動するしかなかった訳である。しかし、結局のところ、後者は大・小ロシア民族(スラブ)の進出で文化を失うことになるのである。(大学でロシア語の先生から、ウラジオストクは東[ボストーク]を統治するという意味の都市と教わった覚えがある。常識的に考えて、制圧対象は狩猟民ではなかろうが、ついでに蹴散らされたということか。)

南蛮は虫だらけの地に住む人ということでは。
 そうなると、南蛮はどうなるか。
 黄土高原の南は四川盆地だが、盆地の周囲は「山」。従って、山岳民族と考えるのが妥当では。ただ、チベットほど冷涼な高地ではない山間部で生活する民族を指すと考えるとよさそうである。要するに、山林に住む刀耕火(焼畑農業)主体の民族ということ。

 一見、生産性は低そうだが、南部であるから山は豊かであり、狩猟や採取を兼ねた農耕経済が可能だから、それなりに繁栄していた筈である。山に住む猪を食用家畜化したのはここら辺りの民かもしれない。
 高原地帯で、畑にするか、草地にするかで争う民とは住み分けて生きていくこともできた筈だが、いかんせん民族としてまとまる意味が薄いから少数民族化の道をたどることになる。農耕民の技術を用いれば、山地でも、生産性が格段に上の灌漑農業が可能になってしまえば、民族消滅の危機と言えよう。そんなこともあり、南蛮の民は、条件が悪い土地への移動を余儀なくされた訳だ。
 その結果、云贵高原が少数民族だらけになったとも言えよう。

 よく知られているように、ここら辺りに住む少数民族は、泛靈論(アニミズム信仰)が多いし、棲み分けが見られる。大昔からの体質がそのまま受け継がれていそうだ。この体質が少数民族化を促進した可能性も高い。それぞれ隔離されていれば、疾病に対する免疫はつかないから、一族絶滅が多発してもおかしくなかろう。
 小生は、漢族が無理して南部の山に入植しなかったのも、それを見ていたからでは。その原因をなんらかの虫と考えたかも。少なくとも、マラリアの存在は知っていた筈で、危険な地域であることを見抜いた筈。ただ、蛮の虫は蚕飼からきていそうだ。四川盆地では、飼料植物の桑は古代から大切にされていると聞くし、生育特性からみて本来は山桑だろうから。

 ちなみに、チベットは超高地での半農・半牧経済圏。付随的に小規模な山岳遊牧ありといったところか。山国だが、南蛮とは全く異なる体質である。

东夷は漢族に吸収されたということか。
 残るのは东夷だが、これは中・低地の住人。
 何故、それが「弓+大」という文字になるのかはわからない。遠くにいる渡り鳥を射るのが上手だし、戦闘になると弓の名手揃いで、これにはたまらぬということだろうか。

 黄土高原から見れば、黄河下流ということになる。
 黄土高原は乾燥地帯の灌漑農業だが、こちらは湿潤な低地の、河川扇状地や湖沼周辺で農業に携わる民族といったところ。この地も治水が決め手であるから、その面では文化的には近い。ただ、黄河下流は洪水が激しかった筈で、人の手でなんとかなるというものではなかったろう。高原地帯しか、安定した農業は難しかったと見るべきだろう。ただ、山東半島から長江デルタ辺りにかけては、比較的穏やかな水流の箇所が多いから、そこら辺りに住むのが典型的な东夷と言えるのではないか。ここが結構重要なところで、東側の中・低地といっても、北緯43度線以南の水稲農業の民と考えるのが妥当では。

 おわかりになると思うが、この民はもともと漢民族とは言い難い。
 早くから支配下に置かれ、入植されて文化も消えて融合するしかなくなったというにすぎまい。現時点でも、東南部の水稲地帯の人と、黄土高原と黄河下流域の麦地帯の人では、会話は難しい。異民族の言葉が伝承されていると見てよさそうである。日本語に残っている、漢音、呉音の違いを考えても、方言とは言い難い。
 ベトナムは越南だが、越北がどこかわからぬが、そこらが东夷の代表的末裔かも。
 日本にも“越”は来訪しているが、これは海の道だ。

全体をながめると、漢族感覚がわかってくる。
森林 (狩猟民族)
西域砂漠
(突厥族)
蒙古高原
(蒙古族)
大兴
安岭
山脉

 
 
 
 
中・低地
超高度地
(青蔵族)
 
 
黄土高原
(漢族)
四川盆地
云贵高原
 以上を右図のように、概念的地勢図で描くと中国の全体像が浮かんでくるのではないか。

 図で黄色の高原地帯のうち、四川盆地(成都平原)には全く触れなかったが、そこには、2,300年前の水利・灌漑施設“都江堰”が現存している位で、黄土高原と同類と考えてよいだろう。もちろん、今でも、5,300平方kmの農地に活用されている現役施設である。当然ながら、その辺りに住む民に“四夷”感覚が残っていておかしくない。
 それはこんなところか。・・・

 东夷は民族同化に成功したので一安心。
 西戎こと突厥族(维吾尔)は今もって問題はあるが、西域を押さえ、漢民族を入植させればなんとかなろう。
 北狄こと蒙古族と満州族を支配下におくことは大命題。東北と内蒙古地域は同化路線が進んでいるが、外蒙古は未だどうにもならぬ。
 南蛮は棲み分け好きだから、南方に追いやり、閉じ込めておけばよかろう。ただ、青蔵地域や南の隣国の民族と連携しかねないので、拠点都市は漢民族一色化を図るとともに、国境管理の厳格化を進めるのが一番。
 これを可能にするのは武力制圧しかありえない。

 漢族には儒教の血族意識が色濃く残っているから、これは冗談とも言えない。霊は永久に残るという宗教観が底流に流れている訳で、“四夷”の霊もいつまでも残っていることになる。従って、何百年かかろううが、これを制圧するしかないのだ。日本流に、水に流し、霊をお祀りすれば解決とはいかない。
 それに、漢民族の誇りはなんといっても歴史書。それはヘブライ人にとっての旧約聖書のようなもの。従って“四夷”感が消えることなど有り得ない。“桑原桑原”。

 尚、現代中国の隣国は14ヵ国。言うまでもないが国境紛争だらけ。ケ小平の現状維持路線のお蔭でどうやら平静を保っているにすぎない。
 【北】 蒙古
 【東】 俄国(俄罗斯) (北)朝鮮
 【西】 哈萨克斯坦 吉尔吉斯斯坦 塔吉克斯坦 阿富汗 巴基斯坦
 【南】 印度 尼泊尔 不丹 缅甸 老挝 越南
      尚、克什米尔 锡金邦はインド領とされている。

 さて、北京政府から見て、現代の四夷はどう位置付けられるのであろうか。

 と言うことで、第二十四回はこれまで。
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