■■■ 「說文解字」「爾雅」検討[はじめに(続)]■■■ ≪一≫部 <一>惟初太始 道立於一 造分天地 化成萬物 凡一之屬皆从一 弌 古文一 <元>始也 从一 从兀 {徐鍇曰:元者 善之長也 故从一} <天>顛也 至高無上 从一大 この記載の仕方は全巻に踏襲されており、漢語を文字から解釈する際の基本的姿勢とされていそう。 ≪X≫部 AМ(也) AB也 BA也 BC也 ABA也 BBA也 AМQ也 AX也 AX〜(也)/A〜X AX〜皃 AX之緫名 A〜之屬 AМN之實名也 AМN之類也 AB(之)〜(者) A○○○名 ・・・ここから、先ずは、品詞概念が見てとれる。 モノの認識(概念形成=伝達可能な意味)⇒表出された言葉(命名=名詞創出) (實:富 物:萬物 牛爲大物 天地之𢿙 起於牽牛) カテゴリー的には3ッ設定されていることになる。 ①物としての実体を指す實名詞("命名"必須) ②複数の實名詞が所属する "類(集合)"として設定された代表名詞 ③特定の個に宛てた固有名詞 その上で、名詞の用法が規定されることになる。 順列構造があり、頭(項目)で、語る対象(主題)を示す必要がある。(字書である以上、「周禮」が記載している様に、"その名物を弁ずる"訳である。) そして、それを語るのも又名詞。現代文法用語では、前者が主語で後者が述語。(ABという用法であれば、正確には語でなく辞とすべきだろうが。) サンスクリット的に言えば、先ず最初に、対象を認識したことを伝え(主題の設定)、その対象を説明する(述語)というのが、漢語表現の原点ということになる。倭語は、相対話語なので、両者が主題について共有している場であるのが普通だから、述語一本語だが、文字表記化できることが当たり前の漢語はそうはいかない。設定主題を、言葉の頭(主語)で示すことは、絶対的規則とせざるを得まい。 従って、文章"<元>始"は、こう解釈することになろう。・・・ <元>(名詞)と命名されている "物"についてであるが、 その意味は、 始(名詞)という"實"に相当すると 考えることができる。 尚、"<元>始也"の末尾文字は、文章終末端の記号(=。)で省略可能。特段の意味は無い。 これでおわかりの様に、漢語は文法的には非常にプリミティブ。 現代一般人のグローバル感覚からすれば、S+V型構造言語と見なすものの、名詞2つを繋げるだけで主語述語の文章として成立するのだから、そこに構造と呼べるものは実は何も無い。(サンスクリットと正反対で、論理性をできる限り排除していることになる。例えば、"泥土"と名詞を2つ並べるだけで、それを文と見なせるのだから。)言い方を換えれば、述部名詞が、その意味とは全く無関係な動詞の役割を同時に果たすという、極めて特殊な言語ということになる。(文章構造的には、主語[名詞:この言葉の発信者(が)]と述語[動詞:(見解を)示した。]という隠れてはいるものの自明である根本表現のもとに成立していることになる。つまり、名詞2つの文章とは、< "A=B"という見解がある。>との表現。) このことは、融通無碍を旨としていることを意味しており、述部の名詞が意味上での類縁の動詞として使われても当然ということになろう。 要するに、言葉として存在しているのは"名"だけで、そこには品詞の概念は皆無。字は名の記号であって、それ以上ではない。 漢語とは、その様な記号文字の羅列表示ということになる。(この用法規則が漢文法であり、文字列秩序をいくら精緻化したところで、所詮はqwerty的な規則。それはみかけの論理性。) 太安万侶は、そのことに気付き、これなら顕在的な文法がある(品詞分別があり、活用語峻別や、単語の格を示す辞も存在。)倭語の漢字表記は簡単であることに気付いたと思われる。・・・このお蔭で日本語が成立。 ⏩続 (C) 2025 RandDManagement.com →HOME |