■■■ 「說文解字」「爾雅」検討[1daaa釋詁]■■■
"ミクロ的には、多少の関連性があるグループが存在する。"と書いたが、じっくりと眺めた訳ではない。正確に言えば、手抜きの見かけだけの点検である。
行数が多いので物理的に一瞥ができないし、作表型やデータベース型ソフトで分析的に調べるのもたいした手間でもなさそうだが馬鹿々々しい分析で終始しそうに思えたから。
と言うのは、遅れて事情を語るのもナンだが、すぐに以下の訳の分からぬ記載が目につくから。・・・
朕 畀  台   ┐
      【予】 陽 賚 卜
  畀 予    ┐
      【賜】 貺 賚 貢 錫
朕 余      ┐
      【身】 躬
朕 余 予 台 身 ┐
      【我】 吾 言 卬 甫
普通、優秀な人なら避ける形態の分類。それでも、この4行を纏めて、これが実情であるということを示すならわかるが、それを避けている。(常識的には、この手の記載だと、混乱があると見なすことになるが、"教"書に対してその手の評価は禁句。)

ただ、敢えてママ受け取れば、概念という考え方に拘るな、という指摘と言えるかも知れない。

それは、ある意味正しい。
「詩」の言葉を、一句一句にばらして、さらに語彙を最小単位の音(その表記形態が漢字。)として、それを分析的に眺めても意味があるかははなはだ疑問と言われれば、返す言葉無し。
詩経の作品など、背景の見方で、その意味はどうにでもとれるものだらけだし、背景自体で正反対に見ることもできたりして、そもそもさっぱりわからなかったりするのだから、解釈そのものが作品と化していると言ってもよかろう。
言葉とはそういうものと看破しているようなもの。
(そうだとすれば、「爾雅」に編者名が明示されていないのは、当然と言えそうbr>

要するに、【予】【賜】【身】【我】はニュアンスの違い。その場で、当意即妙に用いているから、適当に解釈すれば十分と言っているようなもの。但し、【賜】だけは意味が少々違っているので、ご注意のほど、という程度の記載。

ただ、字書たる「爾雅」全体がこうしたトーンで埋まっているとはとうてい思えないので、これは例外としておこう。
  

     

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