■■■ 「說文解字」「爾雅」検討[3c釋訓]■■■
釋詁 釋言 釋訓と眺めて来たので、ここでRecap。

「爾雅」は、実物と名称の対応を文字で解説しているが、この様な文字間の異同検討を<名物>学と言うらしい。その出典は下記と。
  庖人…掌共六畜 六獸 六禽 辨其名物[「周禮」天官冢宰 庖人之職]
  毛六牲 辨其名物而頒之於五官 使共奉之 辨六粢之名物與其用 使六宮之人共奉之
  辨六彝之名物 以待果將 辨六尊之名物 以待祭祀 賓客[春官宗伯 小宗伯之職]
儒学者が心血を注ぐ訓詁学の核心はコレということになるのだろうが、巻一〜三を眺めただけだと、はなはだわかり難い。(<名物>学から外れるジャンルだろうが、そうなるとどう定義するのだろう。)

と言うのは、名前は名詞であるにもかかわらず、釋詁は名詞だけでなく動詞も含まれていそうだし、それでも次の巻の釋言が動詞というならわからないでもないが、名詞があったりと、どういった考え方で区分しているのか、よくわからないから。

仕方ないので、タイトルの字体を考慮して、テキトーな解釈とせざるを得ない。
  ≪釋詁 第一≫[古人用例]
  ≪釋言 第二≫[通常用例]

従って、品詞的には、形容詞・副詞ということになる巻三も、見かけ上の位置付けしかできなくなる。
  ≪釋訓 第三≫[重畳用例]

ともあれ、ここまでで、記載事項は必ずしも物の名称ではないことは確か。
<訓詁>解釈対象の"言葉"は曖昧なのである。

漢語は、品詞分別なき言語であるから致し方ないとはいえ、これでは検討対象そのものがオレンジ・アップル化しかねず、解釈議論を深めることは不可能。(名詞概念が欠落している以上、<物の名称>というジャンルが確定できかねるということ。)
おそらく、<物の名称>=<言葉>という原初的状況から、品詞を分別して行く過程で、分別の明示的表現を極度に嫌った結果と思われるが、未分化のママで語義引伸を図るのだから、かなり特異な志向と言わざるを得ない。
(常識的には、品詞未分化ということは、文法の土台さえ確立していないことを意味するが、そう見なす訳にもいくまい。)
巻一〜三とは、こうした漢語体系の特殊性を垣間見ることができる仕掛けになっているとも言えよう。
(西域や天竺の言語体系をすでに知っていた可能性が高い。)

そして、巻四からが、ジャンル毎の名詞語群。この先が正真正銘の<名物>学。

全巻構成を考えるなら、ここで前半部(イントロ)と後半部に分別するしかなかろう。
  ---同義語篇---
   ≪釋詁 第一≫ ≪釋言 第二≫ ≪釋訓 第三≫
  ---事物語篇---
   ≪釋親 第四≫ ≪釋宮 第五≫
   ≪釋器 第六≫〜≪釋畜 第十九≫

この前半部を俯瞰して気付くことは、経典読みの訓詁解釈の字書ではあるものの、先ずは"<命名>ありき"という、漢語族の存在哲学を素直に表現しただけの書でもあるという点。
  道 可道也 非恆道也
  名 可名也 非恆名也
  「無」名 天地之始
  「有」名 萬物之母
  [「老子」道經 一章 冒頭]
つまり、A=Bとの表記方法には、漢語圏での認識論(名称を与えることが、存在認識行為そのもの。)が凝集されていることになる。
  対象物<A>の規定が最初。これが主語。
  その意味が後続する述部<B>。
    <〜也>と表記されたり、
    <(動詞)>になったり。

例えば、後続の文脈によっては、<果><実>は連語の主語かも知れないが、2文字しか無ければ、<果>が主語で<実>が述部。(文章末の表示記号が無いので、後続有無判定は恣意的。)
述部は名詞、形容詞、動詞のどれも可能性があり、<実>だけでは確定できない。読み手の状況判断にゆだねられることになる。・・・これが漢語文法。
  

     

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