■■■ 「說文解字」「爾雅」検討[9g釋地]■■■
つくづく思うが、經典たる「爾雅」を眺めていると、「說文解字」が正反対の立場で上梓されたのではないかと思ってしまう。儒教国家の学者執筆である上に、儒教的秩序の文字宇宙論が展開されているにも関わらず。・・・ともあれ、字書なのに、非常に優れた思想的文化論に溢れていることに気付かされる。

釋地では、既に触れた以下の箇所が目に付く。
  郊外謂之牧 牧外謂之野
"牧"という文字を知らない人はいないだろうが、"畜"同様に「古事記」にはもちろん登場してこないし、現代でも、牧-場や牧-草地という用法であって、"野"とはレベル感がかなり違う。しかし、用途から見て、実態的には草地であることは当たり前。
「說文解字」によれば、"牧"の外側の"野"文字とは<𡐨>である。俗に云う野原ではなく埜社を擁する叢林域ということ。それが野になったのは、開発が進んで田社に変ってしまったことを意味しよう。鄙の地としての位置付けになった訳だ。

それはそれ、郊外は広大な牛飼いの地だった訳で、その地域を"牧"という文字で表現したことになる。

しかし、放牧地となれば巨大な群の羊の方が目立つのではあるまいかという気になるが、「爾雅」には羊を意味していそうな文字は登場して来ない。【九山】(會稽 泰山 王屋 首山 太華 岐山 太行 羊腸 孟門)には羊がでてくるから、地域性が大きいとしても、なんらかの文字が生まれていておかしくないと思うのだが。そうそう、篇十一釋山は【九山】無視。(五山/五嶽の名称が記載されているだけ。)
しかも、釋地以前の篇では、"牽牛/牛郎"星のみが収録されている状態。@釋天、♉TAURUS金牛座と♈ARIES白羊座の如くに牛羊が使われている訳ではない。

これでは、牛羊の文化を感じ取ることは無理である。と言うか、おそらく、そんな余計なことはするな、という姿勢を反映しているのだろう。(儒教的価値観とは、できる限り数多く暗記し、それを詩作に利用することができることこそが賞賛に値するというもの。)

「說文解字」は立派。
牛と羊という文字は動物を意味していないとはっきり書いてあるからだ。
現代語で物理的に解釈すれば"死骸"。大丈夫か、こんなことを書いてと思うほど。しかし、書いてあっても、そう受け取らないことになっているのが、我々が棲む社会であることを肝に銘ずるべき。・・・他の動物の表記文字は原則全身の象形。常識的には横から眺めた姿であるから、横長にならざるを得ない。しかし、文字を縦に並べる都合上縦長になり、上が頭で下が尾となってしまう。ところが牛は、余りに簡略。脚の部分が無い。羊もそうだとする見方もあるが、「說文解字」はその立場とは異なる。

ともあれ、誰が見たって、牛文字は頭で全身の訳が無い。そりゃそうだ、それこそが大牲なのだから。現代人にはおどろおどろしい祭祀情景だが、牛の切り落とされた頭が飾られていることになる。
羊も同様だが、頭を切り落とさずに捧げることになる。(頸動脈を切断して完全に血抜きしてから供えるのだろう。)下半身はグダーとなった姿で、他の文字の様な動物の姿とは違う。
この情景の後に宴がある訳で、それこそが"美"。

【䍧/𬙮】
牛(𠂒/牜):大牲 件 事理[象角頭三 封㞑之形]…[𠂉+十]
羊(𦍌/⺶/⺸):祥[𦫳 象頭角足尾之形]…[⻀+𰀁]
    牟:牛鳴[牛 象其]
    羋:羊鳴[羊 象聲气上出 與牟同意]
  牧:養牛人  =牜[牛]+攵[攴{⺊(卜)+又(手)}]
  䍩:n.a.
   _[牛+儿]:n.a.
   羌:西戎牧羊人[人+羊]
     南方蠻閩-虫 北方狄-犬 東方貉-豸
     西方羌-羊 此六種
     西南僰人 僬僥-人   蓋在坤地 頗有順理之性
     唯東夷-大/人  夷俗仁 仁者壽 有君子不死之國

        牪 犇
        𫅓 羴
:畜父[牛+土]
:畜母[牛+匕]
羝/牂:牡羊[羊+氐/爿]
_牝羊:n.a.   (⇒牂の可能性あり。)
 犠:n.a.
 義:己之威儀[我+羊]
 牲:牛完全[牛+生]
 _[羊+生]:n.a.
   犧:宗廟之牲[牛+羲]
   羲:气[兮+義]
     特:朴特 牛父[牛+寺]  cf. 鼭𪀔𩶬𫊵
     群:n.a. 羣:輩[羊+君]  cf. 麏鵘鮶
𬌚:n.a.
:小羊[羊+大]
:甘[羊+大]  羊在六畜主給膳[美與善同意]
   牴:觸[牛+氐]
   羝:n.a.
:二歲牛[牛+巿]
:n.a.
   犢:牛子[牛+瀆省]
   羔:羊子[羊+照省]
      㹗:牛羊無子[牛]
:萬物 牛爲大物 天地之𢿙 起於牽牛[牛+勿]
:進善[羊+久] 文王拘羑里 在湯陰
  

     

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