■■■ 「說文解字」「爾雅」検討[10釋丘]■■■
「爾雅」篇十は特別な想いの元に挿入された可能性があろう。孔子の諱名である丘だからということではない。

「說文解字」での字義からすれば、"丘"とは、人が住む北側に位置する、もともとあった高くなっている土地ということになろう。(氣が流れ込む、南麓北岸の地に天子が居住との観念を組み込んでいる。)
字体的には北や比の類縁とみなされており、山の概念とは無縁であることが示されている。系譜的発展性は無い。

地誌記述は山系・水系の名称で十分であり、邑の同定に丘が必要とも思えず、「爾雅」が特別扱いしている理由は判然としない。
目を引くというか訳の分からぬ記述を含む語彙としては、"敦 陶 融"といった形容表現位ではあるまいか。
  一成為敦丘
  再成為陶丘
  再成鋭上為融丘
  三為崑崙丘

・・・釋詁では<融…【長】>なので、丘陵的姿として落着させたいがそうはいかない。
邑後背地との観念が基底にあるとすれば、字体論の「說文解字」での<炊氣上出>がイメージ的にはしっくりくるが、この文章とは相容れそうにない。

おそらく、この3"丘"をいくら文献研究したところで、沈没するだけ。
雲的三重構造は伝承で多そうだが、崑崙(天竺の須弥山に対応)はあくまでも山。それを、あろうことか、丘としている。急峻な形状でなく、日本的な丘形状と見ていることになる。
こうなると、なんらかの丘譚(政治的に抹消されたこの地の天帝あるいは西王母)神話の存在を意味していると考えるしかない訳で。
(この辺りの説明は結構難しい。崑崙神話はどの王朝にとっても重視するからで、それは儒教勢力も同じこと。儒教的神話唾棄姿勢とは、王朝ヒエラルキー構造との対立を持ち込めそうなストーリー性の除去であって、第一義的には伝承の断片化、換言すれば接続譚の完全解体にある。倭国も儒教国化していれば、大国主の一貫するストーリーやその系譜の「古事記」掲載などあり得ない。)

天下有名丘五ヶ所在りとはっきり記載されているのだから、この手の倭人の"山"的な"丘"信仰は早々と消滅させられたということかも。(丘譚記録は残存していないが、羅列してある丘名はすべてトレースできると思われる。調べる価値はありそうにないが。)

「說文解字」の編纂者は、儒教尚古主義派の政治勢力に属している以上、神話除去姿勢を示さざるを得ないが、この辺りについてかなり知っていた可能性が高い。(現代の解説は、概念が混沌状態なので極めてわかり難い。・・・黄帝神話と呼んだりするが、ヒトの時代の事績である。神話の世界の~ではない。)
太安万侶が、倭語表記の本文とは全く異なるガイストを漢文の序としているのは、「說文解字」の精神を受け継いでいるとも言えそう。

【参考:現行通用地名の"丘"】
≪河南≫
 新郷 封丘…古封父之國
(漢高祖劉邦 封)
 商丘-民権 葵丘…斉桓公 会盟@前651年
 濮陽 帝丘…衛国成公@前629年
 周口 沈丘…周朝沈丘[=廢墟]
≪河北≫ 西側太行山脈との境:太行山脈 2雄(趙 燕)と中山国の地
 滄州 任丘…北斉設置縣
 邢台 內丘
(邱)[隋朝忌諱]
 武安 (磁山)…7000年以上前に農業(粟・畜)勃興

≪釋丘 第十≫
丘一成敦丘 再成陶丘 再成鋭上融丘 三成崑崙丘
 如乘者乘丘 如陼者陼丘
 水潦所止 泥丘
 方丘 胡丘
 絶爲之京 非人爲之
 水潦所還 埒丘
 上正 章丘
 澤中有丘 都丘
 當途 梧丘
 途出其右而還之 畫丘
 途出其前 戴丘 途出其後 昌丘
 水出其前 渻丘 水出其後 沮丘
 水出其右 正丘 水出其左 營丘
 如覆敦者 敦丘
 邐迤 沙丘
 左 咸丘 右 臨丘 前 旄丘 後 陵丘 偏 阿丘
 宛中 宛丘
 丘背有丘負丘
 左澤 定丘 右陵 泰丘
如畝 畝丘
 如陵 陵丘
 丘上有丘宛丘
 陳有宛丘 晉有潛丘 淮南有州黎丘
 天下有名丘五 三在河南 其二在河北 ━━丘
望此ュ而岸 夷上洒下不漘
 隩 隈…酷隩 外
 畢 堂牆
 重 岸
 岸上 滸
 墳 大防
 涘
 窮瀆
 谷者溦 ━━濠ン
  

     

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