■■■ 「說文解字」「爾雅」検討[12i釋水]■■■
"崑崙"は釋丘で採り上げたが📖、黄河水源地としての意味も大きいので、再度採り上げておこう。

現代地理上の崑崙山脈とは、西欧思想が流入した頃の中華帝国学者官僚の一般的見方に従って、西欧の地理学者が4本(アルタイ 天山 ヒマラヤ 崑崙)の1つとして確定したもの。秀逸。

但し、それ以前の官僚の姿勢とは大きく違っていることに注意を払っておくべきと思う。

ここらは結構重要な視点と考える。

こうした王朝官僚には崑崙山を実在地としたいという考え方がある訳で、重要なのは、その地が黄河源流であるべきという強烈な信念が根底に存在していること。(非儒教的宇宙山としての崑崙山信仰の切り捨てには失敗したと見ることもできる。黄河は、崑崙出白という見方に拘泥するしかなかったようだ。)要するに、<大中華圏はすべて五行で解釈すべし>なので、崑崙山は、赤白黒黄の5水出流(河 江 珠 メコン サラワジ)の地を当てるべしとなる。
・・・昆侖は中原が生んだコンセプトではないが、それを取り込まざるを得ず、どの王朝官僚もその理屈作りに腐心したのである。

中華帝国が方位色彩を始めた切っ掛けは、崑崙地域の四河名称と見てよいだろう。水の色である。・・・
  河出崑崙虚色白@釋水
  海內昆侖之虛・・・赤水出東南隅・・・河水出東北隅・・・洋水 K水出西北隅「「山海經」海內西經]
(パミール高原には、赤白青黒色を呈する河川が存在する。それを考えると、河水の色彩は白、洋水は青ということになろう。堆積性の黄土の元はゴビだろうが、源流域で黄色が顕れることは考えにくい。)

それ以前のメルクマールとしては仏教渡来。当然ながら須弥山との同一性を図って中華意識高揚を図ることになる。そのイメージには、天竺の恆久之河の存在が被っていそう。
と言っても、衣替えした道教によって、西王母神仙化が図られ、不老長寿信仰の山と化したのであるが。それ迄は、玉産地として西方にある実在地(于闐の山)とされていたのであり、王朝としては、そこに一番の関心があったのは間違いあるまい。

もともと、儒教的国家観を打ち出す以上、山に対する特別な感情などあろう筈がない。"山有○○"でしかなく、即物的な価値を見出せる場所以上では無いからだ。<天帝⇔天子>に関与する理屈が色褪せかねない、帝国圏外に存在する宇宙山信仰など、邪魔物に映る筈。片付ける訳にもいかないとなれば、国教の視点で、天子に助力する仙女の棲む山とでもするしかなかろう。
そもそも「詩経」とは、黄河国家群で謳われていた歌謡を儒教的観点で編纂したものの。情感が生まれるのは山ではなく河の方である
(この情感とコンロンという言葉を繋げるのは至難。砂漠地域に突然に発生する、すべてを呑み込む巨大河川の大元水源たる急峻な山岳地の名称としか思えず、甚大な被害をもたらす神の住処というイメージになる筈なので。)
儒教的視点で編纂されれば、そうなるのは、当たり前。情感といっても、官僚や諸侯レベルの一種の叫びを文字に落としたもの。それは、自由精神から発する言葉とは程遠く、天子の意向で、命も即座に奪われかねない環境で生きて行くことの苦悩と悦びを表現していることになり、情景としてはせいぜいのところ河の流れ。

---"山有○○"---
山有樞・・・山有栲・・・山有漆・・・

     [「詩經」國風 唐風 山有樞]
山有扶蘇・・・山有喬松・・・
     [「詩經」國風 鄭風 山有扶蘇]
南山有臺 北山有萊・・・南山有桑 北山有楊・・・南山有杞 北山有李・・・南山有栲 北山有杻・・・南山有枸 北山有楰・・・
     [「詩經」小雅 南有嘉魚之什 南山有臺]

     [「詩經」國風 豳風 東山]
山有嘉卉・・・山有蕨薇・・・
     [「詩經」小雅 谷風之什 四月]
山有苞櫟・・・山有苞棣・・・
     [「詩經」國風 秦風 晨風]
山有榛・・・
     [「詩經」國風 邶風 簡兮]
  
     

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