■■■ 「說文解字」「爾雅」検討[17paaxx釋鳥]■■■ ・・・「山海經」<大荒>には、 最古層の観念から見た社会像が描かれていると見ることができる†・・・ 「山海經」の書名の初出が「史記」@前91年であることはよく知られているが、現存版と同じ内容である保証は無いので注意が必要。序文も著者名も無いのだから、後世の削除/挿入があっておかしくない。 しかも、「漢書」藝文志には13篇とされているから、現在の5+(4x2)+(4+1)巻(現存「山海經」とは注釈本。)とは全く違う体裁だし。 「漢書」の記載に従うなら、方位記載順が異なる末尾の5巻はかなり後世に加えられた新しい部分と見るべきだろう。13篇に欠けている、古代の伝説的情報を補う必要ありと考えたから補遺的に合本化されたのだろう。(従って、内容的には一番古層の伝承が記載されていることになる。) という見方だと、当初の13篇書の成立時期は、漢代の官僚の直観的判定では、周代だったと思われる。 当時の常識からすれば、「山海經」とは、怪奇動物図版でもあったろうから。(時代の雰囲気に合わせて、その後、都度書き換えられて来た筈だから、現代に伝わる図絵とはかなり異なるだろうが、怪奇性という点では五十歩百歩。)・・・禹@夏が九牧(州)貢上の金で鋳造させたと称される天子@〜殷-周のレガリアたる鼎存在の話を知っており、その図絵の叙述書と考えるしかないということ。(秦代にレガリアは玉璽となり、九鼎は消滅。その後、武則天と徽宗も鋳造。1835年鋳造の世廟九鼎@グエン王朝には162の図絵があり、当該王朝版山海經図絵になっている。) 話は跳ぶが、魯迅愛好書との話は、この観点で、極めて重要な指摘であることがわかる。儒教型の天子独裁型統治の裏面(反逆側)を描いている"芸術的作品"と評価したことを意味しているからだ。(怪奇偶像トーテム社会とは、族外婚と母系制を意味している訳で、前者は宗族絶対規律に組み込まれたが、後者は消滅させられた。それに沿って、崑崙と西王母の位置付けが一気に変わったことになろう。) "九"鼎こそが、滅ばされてしまった、それ以前の社会の記念碑的存在で、その解説書が「山海經」と見ると、魯迅的に解釈せざるを得ないことになる。 「爾雅」が人工物表現文字集としての釋器を組み込み、釋人身を欠いているのは、前者が雅語そのものだからということになろう。(古代情感をママ受け継いでいる倭語からすると、メ ミ ハナ ハは植物用語であって人身用語ではなかったようだし。) 状況説明を加えておこう。・・・ 鼎/鬲とは青銅製の供献用。古代出土品には必ず煤が付着しており、無文様中空容器で先端が尖る3本脚の形態。(正面1本が鋭利。)極めて実用的な鍋であることは間違い無い。 ところが、祭祀国家の殷によって、デザインが大きく変わり、時として単純な飾り文様版だった状況を突き破り、一挙に複雑(怪奇にも映る)な文様を目立たせる様態になった。 その完成形として九鼎が登場したことになる。従って、殷代晩期が鼎の絶頂期ということになろう。 ・・・上記は、恣意的に鍋の把手の存在を捨象している。耳無しには鍋の移動ができないので必須な部分であるにもかかわらず。つまり、この部分に十分注意を払わないと容器の意味を見誤ると考えて配慮した訳である。 そう言えば、現代人ならすぐに感付くのでは。 周王朝では、レガリアは重視されたものの、西周後期には実用的器形化し、浅い器身に。つまり、鍋では無く、料理の盛り付け器に変ったのである。 文様は装飾化され、特別な意味が付加されず、安定性が重視されるから足が獣蹄形になっていく。 こうなると、所有数が諸侯〜士大夫の地位を示すことになってしまう。 文様は精緻で規則的で、見栄え良くなる様な造形化が進んだ訳で、殷代のトーテム像を想起させる形状からの離脱が図られたと見ることができよう。 ⏩戻 ⏩続 (C) 2025 RandDManagement.com →HOME |