■■■ 「說文解字」「爾雅」検討[17xx釋鳥]■■■
釋鳥を巡る随想。

「說文解字」の著者 許慎や、太安万侶は、この篇をどう見ただろうかと思いを巡らすのも一興。
特に、許慎の場合、儒教政治勢力の重鎮であり、尚古主義を高く掲げていた筈なので、鳥文字の解釈方針を探ってみると面白いだろう。

以下が、小生の見立て。・・・
   "敍"に、
   孔子談盲従は避けるべしと書きたいところ。
     しかし、表立って言う訳にはいかない。
   どこかに、ボケ記載を入れ込むことで、
     その考え方を伝えることにするか。

当代超一流の儒学者と自負している以上、文字書編纂に当たっては、孔子語録に沿って、鳥の知識をできるだけ組み込む必要がある。
しかし、凡庸な官僚として生きて行くつもりでない以上、疑問を覚えて当然。「爾雅」をじっくり読み込めば、そんな書にどれだけ意味があるのか、気付かない筈はなかろう。

鳥文字1つ1つにbirdを比定したところで、それを目にした読者は、どの様な知識が得られるというのか、考えさせられることになるからだ。
自書を王朝公定扱いにさせたところで、小篆と同じことで、後継王朝官僚が不要扱いにして消滅して行くのは歴然としているのだから。そんな一過性の"知識"を頭に詰め込んだところで、無駄と違うか、となろう。

もしも、そう考えたとしたら、以下の有名な文章に対して、Nonを突き付けている様なもの。すでにテキストが確立しているので、当時の官学者お得意の、テキスト換文や曲解が難しいのでどうしてもそうなってしまう。
反<孔子語録>姿勢顕著。
 小子何莫學乎詩?
 詩可以興 可以觀 可以群 可以怨 邇之事父 遠之事君
 多識鳥獸草木之名  
[「論語」陽貨]

言うまでもなく、儒教の卓越している点たる、鋭い洞察力を伴う人間学を深めたいなら、優れた古典文芸(「詩経」)に触れろとの、孔子の真っ当な指示。弟子が丸暗記屋が多かったことを示しているとも言える。(当然ながら、弟子は、詩の解釈を丸暗記することになる。)
しかし、その副産物として、鳥獸草木之名も知識として習得できるゾというのである。下世話で余計な話。そんなことを言われたら、儒学者は烈火の如く怒ること必定だが。
・・・文字書編纂者からすれば、孔子談でなければ、およそ馬鹿げていると考えるのでは。

常識で考えれば、birdの名前は五万とある。それをできる限り沢山覚えるなど無理難題そのもの。しかも、図鑑など無いのだから、名前を知っても、同定できる訳でもない。多く知れば知るほど、誤謬だらけにならざるを得ない。
それ以上に厄介なのは、異名はあって当たり前。孔子先生、一体どうするの?。
そんなことより、一番の問題は、名前が王朝毎に変って当然という仕組み。それこそが"生きている"文化存在の証拠。変遷は激しく、博覧強記な専門家でも間違わずに比定できる訳がなかろう。

許慎からすれば、1つ1つの正誤に無闇にこだわるな、ということになろう。
それは、透徹した目で小篆字体を眺めて来た結論でもある。
どうせ次の王朝から次々とご都合主義的な解釈が加えられるだろうが、どう精緻に行われようが所詮は浅はかな輩の仕事でしかないと見ている訳だ。

「說文解字」は、「爾雅」とは違い、字書形態の思想書として編纂されたのである。
  

     

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