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オジサンのための料理講座 ←イラスト (C) SweetRoom 2008.11.5 |
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高野山の精進料理を考えてみた…高野山の宿坊に泊まったことがある。旅館やホテルは無かったから。素人からすれば、宿ではなく、塔中。 美しい庭。広い仏殿。宿泊客がいないので、静謐そのもの。 寒い日だったが、夕食は、体の芯から温まる料理。人心地ついた。 そして、小雪がちらつく早朝、お勤めが始まった。 折角の機会なので、参加した。寒さで頭がキーンと鳴った。 東大寺の精進料理は、立派なお料理という印象が強かった。流石、国の総力をあげて作った巨大伽藍のお寺というのが正直な感想。 → 「結解料理から学ぶ」 [2008.10.22] 「結解料理」は国内向けだが、お寺の創立当時は海外の人々も招かれたのだから、国の威信をかけた料理が供されていたに違いなく、今より格段に豪華だったかも。 まあ、それはそんなところで、次に学ぶ対象と言えば、やはり空海のお寺となろう。真言呪法の加持を行う密教の総本山、高野山である。 ここは、里から隔離された山の上。電車も自動車もなかった時代は、参拝に立ち寄るどころの話ではなかったろう。覚悟して出立してから訪れたにちがいない。大変な労苦だったと思われる。 平城京のような交通至便で世界の文化交流がある華やかな場所に建立された東大寺とは全く異なる訳だ。 と言っても、空海は東大寺で戒を受けたし、別当にも就任しており対立的な思想という訳ではなさそうだ。ただ、東大寺は事実上国家組織の一部だったが、高野山は修行と祈祷の場が中心なので、独立性が高かったとはいえそうだ。それでも、平安京の羅生門の東には教王護国寺(東寺)が建立され、国立道場として使われていたのだから、政治とは二人三脚といったところだろうか。 それはともかく、高野山の料理は、思想性が強いようだ。(1) 考えてみれば、それは無理もない話。 山のなかであり、食材の確保もままならぬところで食事をするのだから。山奥で、都の豊かさを誇示するような、贅をつくした料理を出すなどどうかしている。しかも、ここは、僧の道場なのである。料理と食事もその一環であるから、真言の真髄を学べるようなものにする必要があるのは当然だろう。 空海はその辺りも唐で学んだだろう。皇帝の料理とはどんなものかを知り、僧院用の「普茶料理」をすべて身につけてきたに違いない。しかし、それをそのまま伝えるようなことをする訳がない。 教王護国寺の仏像曼荼羅を見てもわかるように、イノベーティブな僧だからだ。思想を完全に消化して、日本流に作り直したに違いないのである。 それは一体どんなものだったのだろうか。 残念ながら、宿坊の料理メニューではこの辺りのことは全くわからない。見たところ、どこにでもありそうな精進料理に映るからだ。 しかし、この地のお店の料理を眺めると、この意味がわかってくるかも。間違えてはこまるが、このお店に宿坊のような歴史がある訳ではない。創業は明治期である。ただ、行幸にあたって、高野山の代表として料理をお出したことがあるから、特徴が組み込まれている可能性が高いということ。 小生はこのお店で食べことはないが、掲載されているメニューを見る限りでは、宿坊料理同様で、特段変わった点は見えない。しいてあげれば、価格の割りには手が込んでいる印象があるといったところか。 う〜む。これではないか。 このお店の、お澄ましの作り方を見ると、それがわかる。(2)出汁は、昆布と椎茸(どんこ)だけではないのである。干瓢や煎り大豆が入る。昔はもっと色々な乾物が入った可能性もありそうだ。これらを酒を入れた水に入れ、先ずはじっくり浸す。これを沸騰させずに、時間をかけて暖めるのだ。そして布漉しして、透明な液体だけ残す。ところが、これで終わらない。煎り米を短時間入れ、又漉すのだ。香ばしさが出るのだろうが、手間のかかる作業が続く訳である。 料理の「手間」をことのほか重要視する伝統が引き継がれているとは言えまいか。・・・などと言うと、いかにもこの料理から思いついた印象を与えるかもしれないが、そうではない。空海が日本に持ち込んだ有名料理を知っているからそう想像したにすぎない。 そう言えば、おわかりだろう。讃岐ウドンだ。 空海直伝の技術で、弟子が郷土料理化したとされている。そう、讃岐では、単なる小麦、されど小麦、の世界が実現されているのだ。茹でたて生醤油かけの百円以下のウドンが絶品と賞賛の嵐を呼んでいるのを知らない人はいないだろう。ここでは、手間を惜しまず、工夫すれば、必ず美味しいものができるという信念が生き続けているということ。 おそらく、空海は、難しいことを主張した訳ではない。食べるにあたっては、「欲望を正しく制する」ことを旨としただけ。 「生きていることを感謝しながらいただく」ことを目指した料理にしたかった筈。 これを、儀式や法要での「振舞料理」や、苦労して登山してきた参詣者への「接待料理」に持ち込んだのである。素材はたいしたものでもないのにえらく美味しいナと、感慨を持って食べて頂くことに重点があるのだ。作り手が全精力を傾けることで、思想の素晴らしさが伝わるに違いないと考えたのだと思う。 山だから、素材は限られており、山菜/茸と乾物が中心だったろう。その限られた材料を工夫して使え、ということ。大豆、小麦、葛、蒟蒻、等を使って、美味しいものを開発し続けたのではないか。そして、空海のもう一つの特徴は、それを門外不出にするような狭い了見を嫌った点にある。料理科学普及の立役者でもあったということ。 そして、料理に当たっては、手間を惜しまず、丹精込め、御もてなしの心で丁寧につくれ、を徹底したのだと思う。 それなら、ここから何を学んだらよいだろうか。 まあ、いかにも高野山というイメージがある、以下の4品を揃えたらよいのでは。 (1) “春寒”風お吸い物 (2) 自製“高野豆腐”モドキの煮物 (3) “東寺”の汲み上げ (4) 吉野葛を使った“胡麻豆腐” 以下、解説しておこう。 ■ 0 ■ 出汁とふりかけ ■■ 出汁作りはのんびり作ろう。前日に、昆布と干し椎茸を酒を少々いれた美味しい水に入れて冷蔵庫保管。翌日、これを弱火でじっくりと暖める。沸騰させない。十分味が出たと感じたところで加熱を止め、昆布と干し椎茸を取り出し、完成としよう。 取り出したものは、糸状に細かく切り、松の実を加えて、味噌と混ぜる。味の調整は味醂で。 ■ 1 ■ “春寒”に似たお吸い物 ■■ “春寒[しゅんかん]”とは“笋羹”の当て字。なかなかお洒落な用語である。中国の僧院料理、「普茶料理」の“筍のアツモノ”を指す。和風版と見なせるが、全く違う料理と考えた方がよい。 タケノコは取れる時期(5月頃)なら、姫筍(曲がり筍)を茹でて、一口大に切り椀に盛り、熱い出しを注ぐだけ。薬味は入れない。 (茹でた姫筍はそのまま冷凍可能だが、それよりは、土佐煮にしてから冷凍した方が後々使い易い。) タケノコが無い時期は、かわりにゴボウを使おう。皮は包丁の背か、ごつごつした用具で、軽くしごくことで剥ぎ取り、水で流しながらブラシでじっくり磨く。これを茹で、一口大に切る。 牛蒡に、 大根、人参、南瓜といった、里の風味の野菜は加えるべきでない。実は、山臭さを感じさせるものを選びたいものだ。従って、彩りに青野菜を加えないこと。それは、街中の風習である。 ■ 2 ■ 自製“高野豆腐”モドキの煮物 ■■ 伝統的な高野豆腐は、極めて硬く、水はなかなか染み込まないもの。(売れている商品は重曹で蛋白質を変質させると共に、組織を膨らませているため、すぐに柔らかくなる。両者はかなり違う。(3)) 古典的な商品を入手して作ることもできるが、本格的な旧来製法の製品ほとんど消えつつあるようだから、(4)自作がお勧め。普段慣れている“高野豆腐”とはかなり違うが、こちらの方が原点に近いのではないか。 お豆腐屋さんから豆乳を購入し、にがりを使って、豆腐を作ってみよう。たいして難しいものではない。できあがった豆腐に軽く重しをのせ放置して、よく水切りしたら、冷凍。使う前日に冷蔵庫で放置し解凍するだけ。これを水切してから、ゆっくりと煮込めば完成。 作った出汁を使おう。味付けは、醤油、味醂、塩。砂糖はできる限り避けたい。香辛料は使わない。 ■ 3 ■ “東寺”の汲み上げ ■■ “東寺”とは湯葉のこと。普通は、干した湯葉を指すが。豆乳から汲み上げて作ってみよう。 別に技術的に難しいことはない。暖めた豆乳を細かい目のザルを通し、鍋に入れて湯煎で温め、表面が冷えてできる膜を箸でつまみとるだけのこと。1回10分はかかるので、時間はかなりかかる。のんびりと、なにも考えず調理に集中することに意味がある。バックグラウンドニュージックは厳禁。 ■ 4 ■ 吉野葛を使った“胡麻豆腐” ■■ 白胡麻をフライパンで炒る。これを擂鉢で根気よく擂り潰す。油がでてくるまでに、小一時間はかかる。さらに、徹底的に練る。 作った出汁適当量に、ほんの少量の塩を入れて味を調整する。これに、胡麻の重さより若干少なめの量の吉野葛を加えて、よくかき混ぜて溶かす。細かい目のザルを通して、ダマがなくまるまで混ぜる。これに、十分に練った胡麻を加えてよく混ぜる。 細かい目のザルに入れ、ヘラで押し出し、裏漉し程度の肌理にする。 極く弱火で暖め、ヘラで鍋底をこすりながら、練り続ける。十分な粘度になるまで止めない。 内面を濡らした容器に流し込み、容器をゆすって空気の大きな泡をできるだけ潰す。容器を水桶にいれ冷ますが、表面が乾燥しかねないので、カバーしておくとよい。(冷蔵庫で冷やさない。) 味噌に作った出汁と味醂を加えて味を調整しながら練る。お好みで醤油を数滴加え、ともかく徹底的に練る。砂糖は止めた方がよい。 胡麻豆腐は容器をひっくりかえして出したら、お湯をかけた包丁で切る。皿に盛り、味噌垂れをのせる。香辛料は一切使わない。 くどいが、いずれの料理も、精神を集中し、じっくりと手をかけることに意義がある。従って、時間がかかる。そして、量を細かく測ったりしないこと。材料を見ながら、目分量で決めることが大切。その上で、味を確認しながら調整していく。この過程が重要なのである。間違っても、あせって対応することがないように。これこそ精神の鍛錬そのもの。 そして、御飯、四品の料理、ふりかけ、のすべてを食卓に並べてから食事を始めること。 それが、のんびりと、心静かに、味わいながら食べることに繋がるのである。尚、作り手は、あくまでもお相伴役。 --- 参照 --- (1) 高野山真言宗総本山金剛峯寺: 「高野山の精進料理 一二〇〇年の歴史が紡ぎ出す滋味を家庭で味わう」 学習研究社 2005年 (2) 花菱 精進料理の味を決める基本のだし http://www.hanabishi-web.jp/content/ryouri2.html#haru (3) 産経新聞・料理面 「おいしさふくらむ乾物百科」2003年6月26日(木)掲載 http://www.fcg-r.co.jp/research/reporttv/20030626topic.htm (4) 高野山霊宝館よもやま記「高野豆腐の話」 http://www.reihokan.or.jp/yomoyama/various/addition/else/koyatofu/tofu.htm (金剛峰寺の写真) (C) S-Hoshino.com フリー素材屋 http://www.s-hoshino.com/ 「料理講座」の目次へ>>> トップ頁へ>>> |
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