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2006.8.22 |
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東京は地酒の本場…酒呑み相手に、東京の地酒、“純米無濾過原酒”(1)を飲んだと話をしたら、突然、“東京に酒蔵があったの?”と訊かれた。余り知られていないようだが、東京の酒造元は13もある。(2) 東京の酒蔵の解説をしたところで関心がなさそうなので、沖縄サミットでは泡盛が各国首脳に振舞われたが、東京サミットでは地酒の純米大吟醸「吟の舞」だったと説明した。 しかし、ピンとこないようだ。 年寄りになってから、酒は余り飲まなくなったから、よくわからぬとの反応が返ってきたからだ。 ほほう〜。 感心なことに、健康を気遣って、アルコール摂取量を減らそうと努力しているのかと思ったら、そうではなかった。日本酒を止め、もっぱら焼酎を飲んでいるという。 [税金ベースの消費量統計で, 2003年度に焼酎が清酒を超えた.] そんな人から、“純米無濾過原酒”は美味しいのかと聞かれ、どう返事すべきか、大いに迷った。 相手は、どう見ても日本酒好きではないから、味わった感覚を伝えるのが難しそうな感じがしたからである。 しかも、質問者は、“純米無濾過原酒”の一般的特徴を知りたがっているようだ。この蔵のこの銘柄の“純米無濾過原酒”を味わったにすぎないのだから、当たり前だが、そんな問いに答えられる訳がないのだが。 正直な感想を書けば、こういうことだが・・・。 純米原酒というから、いかにも濃厚な感じを受けたが、このお酒は逆。 さらに、無濾過だから、野暮ったいが自然な味を楽しめるお酒を予想したのだが、こちらも当てが外れた。どちらかと言えば、都会的な上品な感じがしたのである。 料理を楽しみたいなら、旨みが強そうな無濾過純米原酒は合わないと思っていたが、そんなことはない。食事しながら飲むのにピッタリだった。 こんな感覚を、日本酒を余り飲まなくなった人にどう伝えたらよいのだろう。 たったこれだけのことでも、誤解を与えずに、正確に感想を伝えるのはかなり難しい。 これが日本酒の一番の欠点だと思う。 ・・・と言うことで、ちょっと日本酒の話をしてみたくなった。 日本酒に関しては、肝心な情報が発信されておらず、ほとんど意味の無い情報ばかり聞かされ続けている気がする。 そもそも、日本酒の蔵元数は1,800を超える。(3) しかも、その蔵毎に、特定名称の酒がいくつも造られる。製品の種類は膨大だ。とても覚えられるものではない。 言うまでもないが、製品毎に味は全く違う。これだけ多岐に渡る商品を売るのだから、マーケティング活動も活発にならざるを得まい。従って、素人に、様々な宣伝情報が降ってくる。お蔭で、何がなんだかわからない状況になる。 そんなことは昔からわかっている筈だが、この業界はそれでもかまわないと考えているようだ。 その1つが、地酒”を地域の文化としてではなく、地域特産品として売り込もうとする企画。これで、ますます中身がわかりにくくなる。
もし、「地場」の意味があるとすれば、仕込水の違いである。 この状態で、「地酒」として誇るものがあるとしたら、それは酒蔵としての“文化の香り”以外には考えられないではないか。 この現実を覆い隠そうというのが、「地酒」活動だとしたら、それは無理筋だと思う。 今や、至る所で、地元産米と地元向酵母の開発が進んでいる。これが、魚や野菜なら地域性が如実となるから、わからぬでもないが、酒は醸造製品であり、そういう訳にはいくまい。 原料での差別化競争に意味があるか、はなはだ疑問である。地酒のコンセプトを強化するための、原料差別化と言うが、実は逆向きに動いているのではなかろうか。 と言うのは、ほとんどの場合、この差別化とは、地元の消費者向けではないからである。 東京の酒屋のアドバイスに沿って、東京で売れそうな商品に仕立てようと注力しているに過ぎないのではなかろうか。当然、皆、同じ方向に動くから、違いを説明するために地元産米と地元向酵母が登用されるだけとしか思えないのである。 様々な銘柄が集まる大市場は東京しかない。従って、これは当然の動きではあるが、地域性や地域の文化の香りなど何もない商品を作っているとは言えまいか。
地域特定の好みに合わせた酒を提供することに意味がある。酒の好みの違いこそが、地域の文化の象徴でもある。地域文化の香りを、酒で味わえるからこそ、地酒は愉しいのである。 極言すれば、地域の人と酒蔵の間に紐帯があるのなら、酒蔵が地元にあろうがなかろうがかまわない。 地元産米と地元開発の酵母を使って、地元では飲まない、都会向けの酒を一生懸命に造る地場産業メーカーを、地酒の酒蔵と呼んで違和感を感じないのだろうか。 但し、それを感じなくて済む例外もある。東京の地酒メーカーである。 要するに、「地酒」イメージで売ろうとするやり方は現実にそぐわなくなっているのである。 酒の勝負は、あくまでも美味しいかどうかである。原料がどうあろうとたいした意味はない。 地域で酒蔵が協力し合うと美味いお酒ができる訳でもあるまい。 地場企業が一緒になって行うべき活動とは、地元消費者への働きかけとか、試飲訪問歓迎体制構築の方だろう。 酒そのものから言えば、所詮は蔵毎の努力しか意味はなかろう。 ただ、日本酒の場合、そうした個別の酒蔵の努力が購入者に上手く伝わるかが問題なのである。 原料差別化型「地酒」運動を繰り広げる限り、こうした情報はますます伝わらなくなるのではないか。 簡単に言えば、日本酒は、色々なものがありすぎて、なにがなんだか訳がわからぬということ。 これでは、焼酎やワインと勝負になるまい。こちらも様々な商品が溢れるが、製品はわかりやすい。従って、選択の喜びがあるし、それを実感することができる。 日本酒では、この嬉しさは味わえない。今のままなら、日本酒に人気が集まることは無いかもしれぬ。 →続く (2006年8月23日予定) --- 参照 --- (1) 豊島屋「純米無濾過原酒 十右衛門」 [4合瓶 1,365円] http://www.toshimaya.co.jp/ (2) http://www.tokyosake.or.jp/tokyo-kura/tokyo-kura.htm (3) http://www.fullnet.co.jp/jizakegura_binran2006/jb2006_index.html (4) http://www.jozo.or.jp/i.kouboda.htm 「食」の目次へ>>> トップ頁へ>>> |
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