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2008.9.2 |
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稗の話…なんぼ搗いても 此稗やむけぬ どこのお蔵の下積みか アラ こって牛や 四斗搗く 三斗五升何かい 搗いてかえせ 正調稗搗節3番(1) ヒエは文字からすると、「卑しい」穀物という意味だと思われる。稲作にとっては、同類の強い雑草イヌビエが大敵だから、そのような扱いを受けるのは致し方ないかも。しかし、古事記の口伝者が稗田阿礼だから、由緒正しき作物だったことは間違いない。ただ、不思議なことには、阿礼の出自もわからないし、作物が生まれる神話のシーンには稗は登場してこない。ところが再編された日本書紀の作物誕生神話には稗が登場してくるのだ。民族のアイデンティティとしては、かなり微妙な地位にあった作物ということだろう。 ただ、稗田が珍しくなかったと言っても、連作障害を避けるための栽培だったかも。重要な作物ではあろうが、ヒエの殻(穎)を外すのには多大な労力が必要だそうで、生産性を考えると敬遠したかったに違いないからだ。 その状況がよくわかるのが、宮崎県椎葉に伝わる稗搗節。もっとも、よく知られている歌詞は昭和初期に創作された、源平悲恋を題材にした替え歌。(2)おそらく、恐慌の余波が続くつらい時代に、辛い労働歌でもなかろうということだろう。 伝承の正調は冒頭の歌詞。単調で、将来性もなく、つらい仕事だったことがよくわかる。歌で気を紛らわせないとやってられないといった所か。 隣の大分県杵築市山香町の盆踊り唄にも、「踊る片手じゃ 稗餅ゅこぶるコラサノサ ヨイサヨイサ」(山香山浦)(3)と稗が登場してくるが、こちらはそんな風情を感じさせないから、搗き方のノウハウがあったのだろうか。ともあれ、山がちな地域では、お祭りに稗餅が登場するのは当たり前だったと考えるのが自然な感じがする。
右表のように栄養成分では稲より魅力的な作物なのだから、もっと使ってもよかったと思うのだが、それを支える精白技術は開発されなかった。稲作に全精力を注ぐため、稗は見捨てられたということだ。 一緒に栽培していた蕎麦の方は、今もって人々に愛され続けているのと大違い。 → 「蕎麦 」 (2008年8月26日) その理由は、馬用飼料作物として使われていたせいかも知れないが(5)、稲作技術が飛躍的に進歩し、お米が美味しすぎたということもあろう。無理して食べる人もいるが、なにも美味しくないものをわざわざ食べることはないし。 麦飯もよし稗飯も辞退せず 虚子(6) 蕎麦のように、粉食レシピを開発していれば、現代の食卓に残っていた可能性もあったのではないか。無くすには惜しい作物である。 --- 参照 --- (1) 椎葉サダ子:“稗つき節正調” 「第1回・霧立越シンポジウム―霧立越を考える―」 [1995.5.14] http://www.yamame.co.jp/sympo1.html (2) 「『ひえつき節』・・もう一つの物語」 椎葉村役場 http://www.vill.shiiba.miyazaki.jp/cms/index.php?itemid=208 (3) みんみん: “山香口説”「大分県の盆踊り」 http://sky.geocities.jp/tears_of_ruby_grapefruit/yomimono/2/yamagakudoki.htm [山香山浦] http://sky.geocities.jp/tears_of_ruby_grapefruit/minyou/kituki1.htm (4) ひえ/精白粒 http://fooddb.jp/details/details.pl?ITEM_NO=1_01139_5 水稲穀粒/精白米 http://fooddb.jp/details/details.pl?ITEM_NO=1_01083_5 (5) 大野康雄・藪野友三郎: “第11章 岩手県北上におけるヒエの栽培と食事” 「ヒエという植物」 全国農村教育協会 2001 (6) 虚子俳句集 http://www1.bbiq.jp/ytutumi/kyosi.htm (ヒエの写真) [Wikipedia] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Hie.jpg 「食」の目次へ>>> トップ頁へ>>> |
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