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■■■ 魏志倭人伝の読み方 [2019.1.1] ■■■
[1] 南行

「魏志倭人伝の論議」について書いたのは随分と前で、2005年。[→](この時、日本古代史参考史料漢籍"を参考にしたが、そのサイトは現存。) その後、魏志倭人伝の国々も考えてみたこともある。[→]
それから随分と経ったので再び取り上げることにした。

小生は、古代に特別興味を持っている訳ではないし、考古学を勉強したいと思ってもいない。と言って、フェイク以外のなにものでもなさそうな主張が横行しているので、考えてみたくなった訳でもない。
「古事記」について書いてきたので、その続きということ。

何故に拘っているかといえば、解説の類を読んでいると不思議感に襲われるから。
古代の研究成果とは、"緻密で画期的な"分析や"素晴らしい"発掘成果とされているようで、小生にはそれが独創性とは思えないからだ。そこで、このような分野で、どのように頭を働かせればよいのか考えてみたくなったのである。
そんなこともあって、時にとりあげて来た題材だが、「古事記」を読んでいて、頭の整理がついてきた気がしてきたので、取り上げてみることにしたという次第。

要するに、「酉陽雑俎」や「古事記」を何回か通読してみて、現代とは全く異なる、キラキラと光る知性の凄さに触発されたということ。

唐代の「酉陽雑俎」は、奇妙奇天烈な実話から、珍奇動植物談義、鷹狩の薀蓄、仏教や道教のトリビア、等々と見るからにエスプリの詰まった、インテリだけが愉しめるサロン用的書に仕上げてある訳だが、それを通じて、インターナショナルな視点から世界をどう読むか提起した書でもある。宗教としての儒教や官僚統制による、思考統制や頭の劣化を防ぐために書いたのは歴然としている。
もっとも、そのように感じる人は極めて稀という以前に、紹介される断片譚さえ聞いたこともないという人がほとんだだろう。ましてや、通読しようと考える人など例外中の例外。

一方の「古事記」は、誰でもが名前と粗筋らしきものを知っており、国花・国鳥と同じような地位にある歴史書とされている。但し、国花・国鳥と同じで、その位置付けは明瞭ではなく、神話集になったり、文芸書とされたりもする。
ただ、世界がファシズムに席巻された時に、"日本の心"とされたので、多かれ少なかれそのような書として考える人が多かろう。つまり、天皇の万世一系の系譜を示すことで、統治の必然性を示した書とみなす訳だ。国粋主義者も反国粋主義者も、そのような解釈で満足する訳である。

しかし、小生の感覚からすると、全く異なった書である。

おそらく、編者は様々な伝承を収集整理していて、その日本語の「美」に触れ、それが早晩消滅することに気付き、それをなんとしても残そうと大奮闘したのだと思う。換言すれば、日中ともに漢字語だが、漢語とは官僚の規格化言語であり、ヒトの情緒をベースとして生まれた言葉を大事にする倭語とは根本的に異なっており、どのようにして両立させるべきか悩みつつ仕上げた作品ということ。ただ、創作ではなく、あくまでも編纂と注記に徹しているのである。

従って、官僚の一大プロジェクトの成果である、正式の国史として作り上げた漢文の「日本書紀」と、似た題材が記載されているからといって、両者にはなんの紐帯も無い。"記紀"としてとらえた瞬間、この「美」はすべて消え去る。
(併読の意味があるのは、「日本書紀」の影響が強いものの「万葉集」。地方の特徴を知るためには「風土記」を参考にするしかないが、できる限り避けるべきだと思う。)
通読しても鎮護仏教臭など微塵も感じさせないし、中国の史書の記載に合わせようとの気も無さそうだが、その「美」は偏狭な国粋的なものでは無いところが特筆モノ。系譜満載にもかかわらず、、暴虐的行為や、ズルさの塊のような話も少なくない上に、判官贔屓的に感じさせる描き方も目立っており、支配者の姿勢を美化しているとはとうてい思えない。といって、偏見蔑視を隠すこともない訳で。

読んでいると、ドメスティックというより、極めてインターナショナルな立場で書いているとしか思えない。都合のよいように海外での動きを取りあげたりせず、明らかに影響下と思われる国内の大転換を"さしさわりなきよう"に取り上げ、間接的に東アジアでの大変化を示唆しているのである。インターナショナルな動きに関心がある知識人にしかわからない書き方と言えよう。
ここらは、危険者扱いされ命を狙われないよう用心しながら筆を進めた「酉陽雑俎」の著者と全く同じ。

そんなことを考えていると、「魏志倭人伝の論議」の核である、ヤマトが何処かなど結論はすぐに出る。
(巨大墳墓が存在し、ヤマトと呼ばれる場所は1つしかないので議論の余地はない。・・・
 
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
ただ、邪馬壹國比定地の議論自体には結構重要な視点が含まれている。北九州地区は武力制圧されたとは思えないにもかかわらず、宗像という地がありながら、どうして出雲のように地位を守れずにただただ衰退していったのか大いに気になるわけで。どう見ても、ヤマトより繁栄していた地だったというのに。比定地そのものはどうでもよいのである。)


前段話が長くなったが、「魏志倭人伝」の話に。

この記載中一番の疑問は、北九州から日本列島"南行"という、地理的に考えられぬような記載。対馬の描写など、まさに図星の報告なのに、余りにおかしい。それに、後世の古代地図でも、日本列島はとんでもなく南方に位置しており、しかも九州が一番北部にあるという南北反転状態。まさにコリャナンダカネなのだ。
どうしてそんなことがおきるのか考えてみた。

北九州到着時点から順に見ていこう。

 至末盧國
帶方郡から狗邪韓國の港経由で九州北部へ向かう航路としては《対馬⇒壱岐⇒唐津@肥前 松浦》が選ばれるのは、海図から見て当然の帰結である。常識的には唐津湾に注ぐ松浦川の河口に港湾施設が存在していたと見てよいだろう。現時点では、港湾以外の遺跡しか見つかっていないものの。
 有四千餘戸濱山海居
海沿いに山が迫る細長い地形の土地に集落が存在したことになる。
 草木茂盛行上見前人
ここが重要なところである。恣意的にそのような道を選ばされたのか、その程度の陸路しかなかったのかはなんとも言えぬが、辺りの風景もさっぱりわからず、東西南北感覚が失われる道を通行させられた旅だったことがわかる。
 人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之
風俗を観察する余裕があったということは、休息のために松浦に滞在したのであろう。潜水漁撈が珍しかったことがわかる。
 東南陸行五百里到伊都國
筑前国志摩 怡土@糸島を指すのは間違いない。[→伊都国歴史博物館]糸島は唐津港の東であるが、南ではなくどちらかと言えば北である。クネクネした道を歩けば、方角はわからないことがよくわかる。おそらく、松浦川に沿って進んだから、東南方向だろうという印象が強く残ったのだと思われる。土着の海人が位置関係を知らぬ訳もなく、本当のことは教えなかったことになる。
 官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王皆統屬女王國
松浦の1/4の規模であり、常識的にはここらの中心地ではないが、女王國の長官と副官が存在し、地域政治の統治機構が設置されていたようだ。それがこの"国"の存在を保障していたのだろう。
 郡使往來常所駐
伊"都"という名称になっているのは郡使の駐在所が置かれているせいだろう。帯方郡の外交官が住んでいたとすれば、唐津〜糸島の地理上の南北位置関係もよくわからずに駐在していることになる。江戸時代の長崎出島的に囲われて自由に外出できない状況と同じ境遇か。地理的状況は漏らしてはならぬということで、女王國の方針を遵守できる適正規模で忠実で信頼できる地区を選んだと考えられる。陸路の便が悪い伊豆下田に米国外交官を留め置いたようなもの。
 東南至奴國百里 官曰馬觚副曰卑奴母離 有二萬餘戸
奴國は博多湾に注ぐ那珂川辺りと考えられるが、この位置も糸島の東南としており、全くわかっていないことがわかる。そのまま方位を受け取れば、山中に入り九州東へ抜けることになるが、距離感覚にして、末盧國-伊都國の500里にたいして山中の道であるのに僅か100里であるし、その先海に出るまでが100里とされていて短すぎるが、ありえなくはない。
(博多湾志賀島出土の"漢委奴國王"の金印で有名だが、文字から見て江戸期のフェイク品ではない。奴國にとって、都合が悪くなったので隠匿したのだろうが、発見過程が曖昧なので想像がつきにくい。)
この辺りは以下の地図を見ればわかるだろう。海流から考えて、壱岐から北九州の港を目指して目視航行すれば唐津に行き着くだろうし、そこから陸伝いに博多に行くのだから、その方向は北東しかありえない。海路が便利なのに、わざわざ陸路で地形感覚を与えないようにしたとしか思えない。
 東行至不彌國百里 官曰多模副曰卑奴母離 有千餘家
続く不彌國は比定すべき地名が見当たらないが、現代の命名の福津(福間&津屋崎)辺りではないか。
そう思うのは、宗像が登場してこないからである。つまり、唐津の港からの航路は使わず、大宰府の那珂川河口や宗像辺りの状況も知らせないようにしたということ。

以上、官名はよくわからないものもあるとはいえ、"鄙守"という用語が見えるから、対馬、壱岐、北九州地区ともに統治組織は明確で、よく機能していたようだ。と言うより、"鄙"地域の統治能力を見せつけたに違いないのである。
   《正副大官名》
 尊馬國 卑狗 + 卑奴母離
 一大國 卑狗 + 卑奴母離
 伊都國 爾支 + 泄謨觚柄渠觚
 奴国_ 馬觚 + 卑奴母離
 不彌國 多模 + 卑奴母離

そして、帯方郡からの正式外交官に対して最高級の歓待で迎えるものの、軍勢侵攻に役立つような情報はすべて伏せて間違った情報を与えるような取り計らいをしていたのではないか。
「古事記」には、その手の計略は堂々と書き連ねてある訳だし。
おそらく、大陸には、内陸や沿海航行のスキルしかなく、外洋航海といえば渤海湾横断程度で、荒海の黒潮は危険が高すぎて避けていた可能性が高い。九州への渡海も、現地用船と見てよかろう。

戦乱こりごりの高級難民だらけの倭国は、大陸の外交使者来訪がもたらす危険性を十分理解しており、それに対応すべく全力投球したと見るべきでは。

ここからが厄介な点。北部九州から遠距離航海で南行するからだ。そこに現代の人口で考えても相当な規模になりそうな巨大都市があるとくる。
 南至投馬國
  
水行二十日
  官曰彌彌副曰彌彌那利 可五萬餘戸
 南至邪馬壹國 女王之所都
  
水行十日陸行一月
 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳 可七萬餘戸


しかも、その地は熱帯域に近い南越 海南島の地(擔耳郡と朱崖郡)のような風景とされるのだから、ソリャ南島かネと思ってしまう。(封土作冢の風習ありとされるから、南九州〜南島とは違う。)
 所有無與擔耳朱崖同
考えてみれば、倭国船での旅で、安全第一の沿岸目視航行だと思われ、速度と進行方向が矢鱈に変わるから、始めて訪れた乗客は方位感覚が失せておかしくない。南行と言われれば信じる以外になかろう。と言うか、それを狙った運行に努めたに違いない。
おそらく、季節は夏。朝鮮半島北部からの渡航であり、その暑さは格別。しかも、いかにも、南国風情を醸し出して接待したに違いない。海南島に近い、南国の離島と見られてもおかしくないように振舞ったのだろう。
当時の知識水準で、大陸から来訪したなら、経度判断はできないが、緯度的にどの程度南に来たかの確認はなんら難しい筈がない。長い筒で北極星を眺めて仰角を測れば推測が付くこと位知らない筈がないからだ。にもかかわらず、それを怠り、子供騙しのような説明にのせられたのである。場所を知られれないよう、次々に手を打ったに違いない。たいしたもの。

【古代地図について】 旧世界全体を表した地図としては、"混一疆理歴代国都之図"が知られる。(李氏朝鮮ハングル制定以前の1402年作成…但し、半島内に古地図は残っていない。)[→photo:龍谷大学所蔵品@wiki]
現代人から見れば、小中華思想そのものの戯作に映るからか、よく紹介されるので、見た人は多かろう。・・・
朝鮮半島は世界の東端の巨大国。流石に宗主国の中華帝国の面積は倍以上あるが。欧州やアフリカ・紅海まで記載されているが、当然ながら、亜大陸とも言えるインドは消されている。日本は、半島南方の遠く離れた場所に位置する小さな島。中国大陸に近い位置にあり、九州が北側で、本州は細長く南に延びる。
朝鮮の支配階層は、15世紀でもこの程度の知識レベルで大いに満足していたのである。日本侵略を二度に渡って試みた、元帝国が詳細な地図無しにユーラシアを席巻できた訳もなく、地図情報は極秘だったことがよくわかる。というか、詳細を極め、大部すぎて消滅の道しかなかったと考えた方がよいのかも。(実は、"混一疆理歴代国都之図"には後世改定版があり、日本列島のトンデモ表示だけ直しているのである。現実と余りに違いすぎるので流石に耐えられなくなったのであろう。)
日本の為政者は、海外でのこの手の認識をそのまま肯定した筈である。北極星信仰はすでに律令政治期に渡来していたことが墳墓壁画ではっきりしており、ラフな緯度の測定は簡単な筈だし、前方後円墳造成部隊は測量技術を身に着けていたのは間違いないのだから、この手の誤った地図感覚を知って、これ幸いと考えたと思われる。
尚、インターナショナルな仏教を取り入れた隋朝は、日本列島のまともな地理的位置を知って、朝鮮半島南方の南北逆転した列島との見方をすぐに訂正している。中華思想の国はそのような知恵より、政治的に都合の良いドグマを選ぶから、もとに戻ったのであろう。


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