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2009.4.2
 
 


素人が読み解く魏志倭人伝の国々…


 対馬の信仰を眺めてみた。
  → 「対馬・壱岐の古代信仰の残滓」 [2009年3月26日]

 印象深かったのは、三韓への派兵が時代を画するようなものだったこと。この取り組みを通じて、“海人”の信仰が統合整理されたのは間違いなさそうだ。
 要するに、国家の統一に成功した天皇家が、北九州の“海人”勢力の力で、大陸進出を試みたということ。

 と言うことで、再び、北九州に戻り、そこにどんな国があったか考えてみたい。となると、ご想像がつくように、魏志倭人伝の解釈とならざるを得ない。そんな話は、巷に溢れるほどあるが、ここでは、そんな議論を全く参考にせず、情報なしで素直に考えてみたい。
(と言うか、そんな本をパラパラめくるとわかるが、一部のデータを強引に結論を出すようなものが多くて、読む気がしないのである。発掘成果の全国的なまとめデータも公開されていないし、未発掘地域なのかもさっぱりわからない。これでは、読めば読むほどわからなくなるのでは。)


 先ず、この使節の目的を確認しておこう。
 倭国の国勢を判断し、脅威にならないか、はたまた侵略する意味があるか、目で確かめることが第一義的なものだろう。とりあえずは、最高権力者と良好な関係を結び、朝鮮半島の敵対勢力を両側から挟もうとの戦略と見るのが自然だ。
 倭国側は、今まで漢の政権と繋がっていた「奴國」を通じて素直に応じたということだろうが、中国に倭国攻略は面倒と思わせることと、国全体としてはかなりの大国に見えるよう図ったに違いない。

 それはともかく、記載されている国々が、現在のどの地域にあるかがわからないものが多い。
 その観点では、記載された国は以下の4グループに分けることができよう。

 (1) ほぼ確実なグループ【大陸からの海路上の島】
      朝鮮半島・帯方郡
       ▼ 水行 7,000里
      朝鮮半島・狗邪韓國
       ▼ 海路 南1,000里
      對馬国 1,000戸
       ▼ 海路 南1,000里
      一大国 3,000家
       ▼ 海路 1,000里
      九州・末盧國 4,000戸
   ・島が“対馬”と“壱岐”であるのは自明。
   ・すべて目視できるのに、記載事項は地図の印象とは相当違う。
     -距離は潮流を加味した数字だと思われる。
     -方位は正式な東西南北ではなさそうである。[往きの船の向きが南ということか。]
   ・地図を見れば現代の自然なルートは自明。
        [釜山→上対馬北端鰐裏港→下対馬東岸厳原港→壱岐勝浦港→唐津港。]

 (2) かなり確実なグループ【北九州内の陸路上の国々】
      末盧國 4,000戸
       ▼ 陸行 東南500里
      伊都國 1,000戸
       ▼ 東南100里
      奴國 20,000戸
       ▼ 東100里
      不彌國 1,000家
   ・獣道のようなところもあるから、距離は意味が薄い。
   ・北九州地域海岸線の陸からの視察と国力把握の意味合いがありそうだ。
   ・奴國だけが強大だったということ。
   ・明確な記載ではないから、伊都國→不彌國の可能性もある。

 (3) 不確実なグループ【投馬国・邪馬壱国】
      不彌國
       ▼ 南水行20日
      投馬國 50,000戸
       ▼ 南水行10日 陸行1月
      邪馬壱國 70,000戸
   ・途中の小さな立ち寄り国がない。
   ・距離表記を止めており、北九州から遠いことは間違いなさそうだ。
   ・両国とも、とんでもない巨大集落。
   ・邪馬壱國行きは、投馬國経由でないと見た方がよさそうな感じがする。

 (4) 推量しかねるグループ【遠いところの国々】
      邪馬壱国以北の国々: 交通可能
      その他多数の国々: 邪馬壱国の東方、海路遠方で詳細不明
   ・どの国も北九州地区からかなり遠いとされている。
   ・素人判断で、音が似ていそうなのは、伯耆、因幡、越、讃岐位か。

 好事家ではないから、この程度がわかれば十分である。(残念ながら、発掘情報をバイアスなしにまとめたものは見当たらないから、余計なことはしない方が無難である。)
 後は、航空写真と地図を見ながら、北九州に上陸して陸路で回った国々を考えるだけ。海岸線を西はずれの佐賀県伊万里市から、東の北九州市若松区まで、海岸線をたどるだけのこと。水源無しの集落などおよそ考えられないから、港と川をたどるということ。そうすると、以下のような結果が得られる。(海岸線や河川の流路は、古代の状況とはかなり違うと思われるが、大型工事・自然災害と、河川や海流による土砂の堆積の結果と考えれば、まあある程度想定でいるだろうし。ただ、博多地区や大産業地帯は大変貌だろうから例外扱いする必要はあるだろうが。)

●伊万里
  有田川
○名護屋
○呼子港
●唐津
  唐津港-松浦川
  東の浜[松浦潟]
  浜玉漁港
○二丈町
  鹿家漁港
  福吉漁港
  大入漁港
●志摩町>前原市
  船越湾-泉川
●志摩町
  引津湾(岐志漁港)
○志摩町(糸島半島)
  福の浦漁港
  西浦
○西区
  宮の浦
●西区>前原市(怡土)
  今寺湾-瑞梅寺川
●早良区
  博多湾-室見川
●中央区
  伊勢崎漁港
  博多港-那珂川
●東区>宇美町
  博多湾-多々良川/宇美川
●福津市津屋崎
  玄海灘-川-対馬見山
●宗像市
  玄海灘-釣川
○岡垣町
  響灘(波津漁港)
●芦屋町
  響灘(芦屋漁港)-遠賀川
○若松区
  岩屋漁港
  脇田漁港
  脇ノ浦漁港
  洞海湾-金山川

 先ずは、「末盧國」を考えることになる。
 もし、壱岐からの航路の記載距離にこだわると唐津より遠方の、伊万里や博多湾になるかも知れぬが、そこを目指す理由が考えにくい。磯などがあり、唐津港へは見た目より時間がかかる航海になると見るのが自然ではないか。
 そうなると、“松浦”川上流の山麓辺りに「末盧國」の首府があった筈。戦いを考えれば、海岸から徒歩1時間程度の場所に設置するに違いないし。その辺りに数々の遺跡があるのは間違いなかろう。
 その隣国が「伊都國」。山がちな“糸島”半島上ということは考えられないから、半島付け根の西側の“船越湾-泉川”か東側の“今寺湾-瑞梅寺川”となろう。後者は“怡土”が上流の地名だ。どちらにしても、海岸から半島と反対側の山麓に入れば同じ場所になるから、両方を支配していたとも考えられる。しかし、小さな国だから、前者だけでは。どうして独立を保てたか不思議な位だ。外港を持つ「末盧國」が倭国管理下にあるという位なのだから。
 ともあれ、隣は桁違いの大国「奴國」だ。こちらは、“那”珂川を中心とした、博多湾岸の集落を大統合した国としか考えられない。“今寺湾”も博多湾内と見なされるから、ここら辺りまでが西の支配下だったのでは。東は志賀の島へ渡る辺りか。
 さらなる隣国「不彌國」だが、博多湾内に注ぐ“宇美”川が名称的には該当しそうだが、地形的に、ここで「奴國」の支配から逃れるのは極めて難しかろう。山側にまで視野を広げれば、大宰府天満宮の地域の“宇美”がある。後代は九州の要所になっているとはいえ、それは博多の後背地というだけのことではないか。常識的には、山の生産力で比較的大きな独立国が成り立つとは考えにくい。
 そうなると、さらに東。宗像市の釣川と、芦屋町の遠賀川には大集落があったに違いない。渤海湾辺りもありそうだが、流石に遠すぎる。
 だが、宗像は、海外からの訪問を受け入れる場所ではなさそうだ。海には、淡路のオノゴロ島信仰の残滓を感じさせる、沖津宮(沖の島)と中津宮(大島)があり、川沿いには辺津宮を擁している地で、神聖な地域だったから。交通も、陸路より、玄海灘の相ノ島経由の船行がよさそうだし。
 これより遠方の遠賀川下流域は、宗像を通らずに陸路で到達できないし、大きな川だから意外と大きな集落はできにくかったかも。
 すると、常識に反しても、山の国となる。やはり、大宰府の“宇美”かとなりがちだが、結構大きな国だから、生産力を考えれば、あり得るのは遠賀川上流集落群ではないか。そうなると、「不彌國」からは、遠賀川の水行で日本海の響灘へというのが主要交通となろう。一方、巨大国「奴國」から「不彌國」入る時は、“宇美”から“三郡山”南の峠越えだったろう。山の民なのであるし。“宇美”は玄関ということで、「不彌國」扱いだったかも。
 玄関という点では、有明海に注ぐ筑後川上流の集落群との交易もあったに違いない。一方、陸路開拓の民だろうから、東の周防灘の集落に繋がる道も確保していたと考えるべきだ。

 厄介なのは、この先だ。南に長期間の水行で「投馬國」に至ると記載されているからだ。北九州地区から南の方の国で、大国なら、大きな河川の地域しかない。
〜有明海とその南の九州東岸〜
●有明海-筑後川
●有明海(玉名)-菊池川
●島原湾(熊本/宇土)-白川/緑川
●八代海-球磨川
○東シナ海-川内川
〜国東半島以南の九州西岸〜
●別府湾-大野川
●日向灘(延岡)-五ヶ瀬川
●日向灘(美々津)-耳川
●日向灘(宮崎)大淀川
○志布志湾

 どう見ても、有明海以外は地形的に狭すぎる。それに、“投馬”らしき地名が見当たらない。九州外と見た方がよいのではないか。
(宮崎県西都市妻[一ッ瀬川: 美々津と宮崎の中間]には木花咲耶姫命を祀る“都万”神社がある。)

 一方、「邪馬壱國」だが、陸路と海路の長期旅程が必要な地。こうなると、九州内は無理がある。
 それに、上記の地域に、古代の信仰の残滓を感じさせる神社がさっぱり見当たらない。もし、呪術国家があったなら、そんなことはありえまい。

 このことは、南という方角記載がおかしいということになる。
 そもそも、距離でなく、日程記載だから、地理的な表現ができなかったということを示している。長い旅程にもかかわらず、中途の国の記載が皆無だし、伝聞情報ということだろう。だが、それは、倭国が恣意的に間違いを伝えたのではなく、歴史書作成者が、中国製作の古地図にあわせたということではないか。地図上で、倭国が南に長く延びた島になっていたに違いない。地図は重要機密であり、倭国側がたとえ持っていたところで、渡す訳がなかろう。
 ともあれ、伝聞にせよ、重視すべきは、「邪馬壱國」が「奴國」と比類すべくもない巨大国家という点。数字はあてにはならぬが、神権国家の時代だから、そんな国家として考えられるのは、大和か出雲しかなかろう。それ以外に存在するなら、古事記に必ず登場している筈である。

 まあ、出雲なら、対馬海流に乗って訪問している筈だから、大和と考えるしかあるまい。それに、北九州諸国は“松浦”“怡土”“那”“宇美”という地名と国名に類似性があった。同じように、「邪馬壱國」は“ヤマト”だ。否定のしようがない。
(古事記の記載から考えれば、淡路島と隠岐が古き倭国。九州は新興勢力でしかない。倭国からすれば、「投馬國」は隠岐にしたいところだろう。尚、隠岐には“都万”という地名があるがそこに特筆すべき神社は無い。)

 それにしても、大和地域はこんな古い時代にすでに巨大な生産能力を立ちあげていたことになるから驚き。当然ながら、それを支えた力は、米作以外にあり得ない。
 と言うことは、米作技術も人も北九州からの移転ということ。低地米作に適した地域を北九州の“海人”勢力が探し求め、移住に至ったということになる。オノゴロ島型の“沖の島信仰”を離れ、新たな呪術の世界をつくりあげたということでもある。海人の天道信仰は廃れ、米作者の天照信仰が倭国を制覇したということ。
 米が権力基盤の象徴になったのである。 →続く[来週]
  → 「赤米から見えてくる古事記の世界」 [2007年4月17日]

 --- 参照 ---
(神社関係の情報源) 「神奈備にようこそ」+「玄松子の記憶」
              
(元の白地図) (C) Sankakukei, InoueKeisuke http://www.freemap.jp/


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