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2009.3.26
 
 


対馬・壱岐の古代信仰の残滓…

 北九州王国群繁栄の前に、覇権集団を生み出したのはおそらく淡路島。その力の源泉は、船作りと航海術。それを支えたのが山頂儀式を核とする呪術。なんの証拠もないが、自然な見方とはいえまいか。
 だが、その独特な祭祀の伝承は無いし、オノゴロ島勢力は歴史の表舞台にはさっぱり登場してこない。ここまで衰退した理由は、瀬戸内海の島文化固執と考えるしかあるまい。
  → 「オノゴロ島伝説の意味」 [2009年3月19日]

 いい加減な推定ではあるが、それなりの説明はできる。
 瀬戸内海材は加工し易いから、大型船が多かったので、移動では圧倒的優位を誇ったということ。神話の世界の記述から見て、淡路島から隠岐まで達したのであるから、その力恐るべし。
 ところが、北九州・日本海勢力が優位に立ったのである。食糧生産力が弱体だった瀬戸内海勢力は対応できなかったということ。
 ・石器が高度化し硬い木の船が主流となった。
   -北九州産の良質な石製道具登場 (その後、黒曜石原石調達)
   -丈夫で長持ちする硬質木材が使用可能になった。
   -船の形態は、材の個別な特質適応設計から、航行最適化優先設計に変更された。
 ・枯渇しにくい深い森からも船材を採れるようになった。
   -川船利用が進んだ。
   -伐採用具が格段に進歩した。
 ・船の大型化と航行能力向上で、運行技術が高度化した。
   - 瀬戸内海型スキル(日々の干満対応)の重要性は落ちた。
   - 日本海型スキル(潮流と風判断)獲得が重要になった。
   - 夜間の位置判断ができるようになった。
 ・瀬戸内海以外でも製塩が広がった。(気候では不利だが、面積の広さで生産性を上げる技術が生まれたのかも。)
 ・“矛”祭器を用いる山頂での太陽信仰祭祀の対抗信仰が勃興した。
   -祭祀・政治の構造が違うスタイルが主流となったのかも。

 ただ、上記で気になるのが祭祀の話である。本当にそんな流れがあったのかさっぱりわからないからだ。それには、瀬戸内海の次に勃興した、日本海側[隠岐(隠伎之三子嶋)、九州(筑紫嶋)、壱岐(伊伎嶋)、対馬(津嶋)、佐渡(佐度嶋)]でオノゴロ島祭祀の残滓を探すしかあるまい。
 隠岐は出雲文化が強いし、覇権が移行した北九州ではわからないだろう。

 ということで、外交に長けていそうな対馬に存在する神社に、なにか古代信仰のヒントがないか眺めて見た。

 対馬での人の生活史は長い。越高遺跡はBC6800年とか。九州産黒曜石と朝鮮半島隆起文土器が出土したという。(1)
 そして、「魏志倭人伝」での特徴は以下のようなもの。   ・周囲はほとんどが断崖絶壁
  ・山は険しく深い森だらけ
  ・陸路は獣道状態
  ・まともな田が欠落
  ・海産物で自給自足の生活
  ・船での交易活動は活発
 いかにも苦しそうな環境だが、そんなところでは、信仰は長続きすることが多いから、古代の面影が期待できそうだ。ただ、戦乱で壊滅的被害を受けているし、為政者の都合で信仰は色々変えられただろうから、どこまで残っているかはわからぬが。以下、気になる神社を並べてみた。

〜神功皇后三韓出征系〜
●八幡宮(海人神社)[峰町木坂: 上島南の西岸]
 ・主神は豊玉彦命の娘神(神武天皇の祖母)
 ・対馬中部の大木鬱蒼たる伊豆山(神域 木坂山)の中腹に建立
 ・大陸側の海に対面(西向)
 ・巨石
 ・宝物はと鏡
 ・おそらく、「軍神」八幡宮発祥の地
   -神功皇后三韓出征時に勝利祈願
   -8旒の御旗で八幡神化
●厳原八幡宮神社[厳原町中村: 下島中部の東岸]
 ・神功皇后三韓出征時に清水山参拝
 ・天武天皇が建立[白鳳期]
 ・宝物は幡鈴
 ・海人神社[上津八幡宮]の下社
 ・現在は島の政庁・繁華街地区

〜神話の海神系〜
●和多都美神社[“豊玉”町仁位字和宮: 上島南端の仁位浅茅湾]
 ・浅海だが極めて深い入り江
 ・豊玉彦命が建立した海宮跡(後、自然災害で完全崩壊)
   -一男二女(穂高見命、豊玉姫命、玉依姫命)
   -彦火火出見命(釣針探索に)来訪、豊玉姫配偶し帰還
 ・海宮(海中に鳥居)
 ・祀るのは彦火火出見命と豊玉姫を象徴する霊石
   -社前の渚にある小さな石と境外の山稜の岩の2つ
   -岩の鳥居は3本柱
 ・神宝は真珠(汐の干満の祭器)

〜天道信仰系〜
●天神多久頭魂神社[佐護字洲崎西里: 上島北西 佐護湾に注ぐ佐護川河口]
 ・社殿無き2峰(天道山)信仰
 ・海岸側から天道山を遥拝(鳥居のみ設置)
 ・石積みの塔
 ・天道山頂上に狼煙跡
●多久頭魂神社[厳原町大字豆酘字字龍良山]
 ・佐護の天神多久頭神社と対
 ・赤米栽培の神田

〜雷神/日照神系〜
●雷命神社[厳原町阿連: 下島の阿連川沿い]
 ・川原での儀式「元山送り」神事(2)
   -神無月に、氏神様の雷命(雨降)が出雲に船で出立
   -椋の大木に鎮座するオヒデリ様(日照)が交代で入山(社)

〜雷家系[亀ト]系〜
●雷神社[厳原町豆酸西井坂: 下島南端の村落の奥]
 ・鳥居欠落
 ・祈年祭りには亀ト神事(3)
●太祝詞神社[美津島町加志字京ノ原: 南島の北部加志岳東麓]
 ・雷大臣命の家跡
 ・亀トの祭神(祭祀跡だと思われる。)
●霹靂神社[上島東側にある舟志湾の奥]
 ・祭神は卜部の祖神雷大臣
 ・海に面した本殿の裏が朝日山(古墳)

〜住吉神社系〜
●住吉神社[美津島町:上下両島の間近辺]
 ・リアス式海岸に立地
 ・鴨居[北島南東端に近い入り組んだ入り江の岬に東面]と鶏知[南島北部東岸の深い入り江の奧]
 ・鶏知には栄えた豪族遺跡(「阿比留」氏)、鴨居にも古墳

〜他〜
●素盞嗚尊系をはじめ多数


 こうして見てみると、淡路島での山信仰と類似なものとしては、天道山崇拝が該当しそうだ。文武天皇時代の祈祷師が祀られているから新興宗教なのだろうが、それは古代意識の反映でもあろう。
 ただ、オノゴロ島祭祀は祭器が矛の可能性が高い。その観点ではこの祭祀は海神神社に統合されてしまったのではないか。どうしてそうなったかと言えば、神功皇后が三韓出征に当たり、勝利に繋がる戦いの神をすべて統合したからだと思う。
 一方、敗戦後の帰還に際して、荒海から一歩入った静かな寄港地の安寧も図った。これが、住吉神社ではないか。こちらは、底筒男命・中筒男命・表筒男命という「津(港)」の神々。「摂津−長門−下関−筑前−壱岐−対馬」のルートで信仰統一を図ったということ。
 この海外侵攻策は対馬にただならないインパクトを与えたことは間違いない。出征に当たり、オノゴロ島式祭祀を一掃する効果が生まれた筈。同時に、敗戦で、北九州の“海人”勢力は一挙に没落ということでもあろう。

 北九州の“海人”勢力の祭器は“真珠”だが、これこそ、豊玉彦命という、まさに海神の本命。オノゴロ島とは違う系譜だろう。
 尚、オノゴロ島信仰は、山頂での太陽神への祭祀が特徴だと思われるが、「オヒデリ様」はそれとは違う。占の神様が日照の神様を圧倒しているのだから。
 ただ、オノゴロ島信仰とは、専門家の占いだった可能性もある。淡路島の為政者が力を失ったので、その信仰もたちどころに消えたと解釈することが可能だから。 →続く[来週]


 --- 参照 ---
(1) 「対馬の歴史」 対馬観光&グルメなび  http://www.tsushima-net.org/history/index.php
(2) 「オヒデリ様の元送り」 長崎文化ジャンクション 文化百選 壱岐・対馬編
   http://www.pref.nagasaki.jp/bunka/hyakusen/iki_tsushima/057.html
(3) 「亀卜(きぼく)神事 − 厳原町 −」 長崎文化ジャンクション 文化百選 壱岐・対馬編
     http://www.pref.nagasaki.jp/bunka/hyakusen/iki_tsushima/059.html
   「対馬の亀ト習俗」  http://www.pref.nagasaki.jp/bunkaDB/bunkazai/pdf/00411.pdf
(神社関係の情報源) 「神奈備にようこそ」+「玄松子の記憶」
              
(元の白地図) (C) Sankakukei, InoueKeisuke http://www.freemap.jp/


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