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2009.3.19
 
 


オノゴロ島伝説の意味…

 北九州の“海人”を中心に古代の状況を考えてみた。
  → 「倭国以前の石器時代を考える」「倭国以前の土器時代を考える」「土器時代の勾玉の意味」
      [2009年2月26日,3月5/12日]

 中国の歴史書情報しかないような時代は、想像で考えるしかないが、北九州辺りの“海人”が力を持っていたことを前提として、じっくり考えればなんとなく見えてくる。
 ただ、北九州覇権以前はどうだったのか気になるところだ。ここに納得性あるストーリーが欲しくなる。

 しかし、歴史書にそれを示唆する話はないから、糸口が少なすぎる。そうなると、古事記と伝承をもとにした、大胆な仮説で対応するしかなかろう。下手すると、素人の作った架空話になりかねないが、そんな恐れを気にせずに、素直に考えてみたい。
 まあ、細かなところはどうでもよく、この時代の全体像が見えればよいのである。

 とっかかりは、言うまでもなく大八州の国生みの部分。
  → 「古事記を読み解く [国産み]」 [2005年11月9日]

 伊耶那岐の命と伊耶那美の命が登場し、“矛”を用いて、海水の潮から「オノゴロ[淤能碁呂]島」を作る部分である。陸地を誕生させ、そこにある天の御柱のお蔭で結婚。水蛭子と淡島を生むが、両者ともに不完全。
 そこで、正しい儀礼を行うことで、次々に島を作ることに成功するのである。
  (1) 淡路(淡道之穂之狭別嶋)
  (2) 四国(伊予之二名嶋)
  (3) 隠岐(隠伎之三子嶋)
  (4) 九州(筑紫嶋)
  (5) 壱岐(伊伎嶋)
  (6) 対馬(津嶋)
  (7) 佐渡(佐度嶋)
  (8) 本州(大倭豊秋津嶋)

 この島々名が記載されている部分を、素直に解釈するのは非常に難しい。オノゴロ島が実在したのかわからないし、現代の常識からすれば、淡路島が最初に登場するのは、あまりに唐突だからだ。

 だが、現代の我々にとっていくら不可思議でも、覇権の最初は淡路島だったと示唆しているのだから、素直に読むべきである。実際、“故其伊邪那岐大神者坐淡路之多賀也”とされているのに対し、淡路市多賀に、通称「幽宮(かくりのみや)」こと、伊弉諾神宮も現存する。常識的には、ここになんらかの遺構があるのだろう。神域を掘り返して調べる訳にはいかないから、証拠を見つけることは難しそうだが。

 つまり、オノゴロ島で祭祀を執り行う“海人”が、“矛”を武器として、淡路島から順に島々を平定していったと考えるべきということ。
 ただ、呪術の時代だから、“矛”は単純な武器ではなく祭器でもあった。(“矛”は金属器だが、もともとは木・石製だったろう。)そして、オノゴロ島創生のシーンからすると、“矛”を用いた“藻塩”作りが行われていたと思われる。塩が全ての源という宗教感があったのだと思う。
 ただ、淡路島の部族が長けていた技術は、“藻塩”作りではなく、“舟作り”と“航海術”ではないか。淡路島から四国へと、淡路海峡の強い海流をものともせず、動き回る力量があったのだから。従って、舟の原木への信仰も篤かったに違いなかろう。
 そう考えるのは、オノゴロ島以前の、漂流型生活の“海人”が力を失った話が挿入されているから。“柱”を尊ぶことで、力が発揮できるようになったとはっきり書いてあるのだ。

 こんな風に考えていると、オノゴロ島は伝説上の架空の島ではなく、実在の島に思えてくる。

 それでは何処か。これについては、マニアから専門家まで、様々な説が提起されているらしい。歴史ロマンを銘打った観光のタネにと、無理矢理作った説もありそうだ。そんな類のものを比較議論してもたいした意味はなかろう。
 と言うことで、何処だろうがよいが、素直に推定するなら、淡路本島の近くの島しか有り得ないのでは。遠く離れた場所だったなら、[博多湾「能古島」や琵琶湖「竹生島」の類] なにか記載があってしかるべきだ。
 「淡路島」同一説(1)も、いただけない。記載がそうなっていないのだから。自凝島神社があるから、そんな話が出るのだろうが、それは、オノゴロ島スタイルの祭祀が淡路島に広がった名残に過ぎまい。未だに残っているのは、たまたま淡路島だけということではないか。(熊野神社があるから、ココは熊野と見なせないというのと同じ。)

 候補はこんなところか。
  1 【淡路島】の傍ら
     ・淡路島北端、神ノ前/岩屋にある「絵島」
       -石屋神社・・・城山(三対山)の拝殿で海に面し東向き
       -岩楠神社・・・山の北側の洞窟
     ・淡路島南端に近い、灘/土生沖の「沼島」
       -自凝神社・・・山から淡路/四国が一望
       -東の海海岸に上立神岩あり
  2 【播磨灘】赤穂・姫路・小豆島に近い諸島の「家島」
       -家島神社・・・神武東征時や神功の三韓出征時に祭祀
  3 【紀伊海峡】和歌山市加太港沖合いの島々[友ヶ島]「地ノ島、神島、沖ノ島、虎島」
       -神島が発祥と言われる加太の淡島神社には雛流し神事(漂泊神信仰)
  4 【鳴門海峡】孫崎近辺の小島「裸島、飛島」
       -渦潮の発生する地帯

 まあ、状況から見ると、「絵島」では。そうなると、オノゴロ島祭祀スタイルとは以下のようなものかも。
  ・信仰の対象は、“山”。(祭祀は山頂で行われたようである。)
  ・“山”がくださる“大木”は特に神聖なものとされていた。
  ・“大木”を舟に加工するための“石”や、航行の目印になる“岩”には特に思い入れがあった。
  ・祭器としては、珠(真珠)は使われず、木と石で作った“矛”だった。
  ・ただ、忘れるべきでないのは、太陽は海の洞窟[岩屋]から生まれ出るという宗教思想が流れている点。
  ・従って、祭祀の場には、岩屋の石を持ち込んだ可能性が高い。

 ともあれ、オノゴロ島祭祀勢力は、「淡路島」に基盤を構築し、次に動いたのが「四国」。淡路島のお隣だから極く自然な動き。(オノゴロ島の岩の欠片を持ち込んだかも。)
 お隣の本州側への関心が薄そうに見えるが、それは、“海人”が定住できる良港や“藻塩”作りに向く場所が少なかったのではなく、祭祀に適当な場所が見つからなかったからではないか。そして、この部族は挑戦的であったことも大きな特徴である。実利で航海するのではなく、宗教的に海へ向かう風習が確立していたということ。それを先導する役割を担った呪術者は、命をかけて祭祀を行っていた筈である。

 淡路島の次に登場するのが、日本海の「隠岐」。“山”信仰と“矛”祭祀が受け入れられ易い素地があったのだと思われる。
 そして、「九州」、「壱岐」、「対馬」と続く。まだ、北九州圏は小集落ばかりで、祭祀のパターンも決まっていなかったのが、オノゴロ島のスタイルで統一されていったのではないか。そして、日本海を北上し、「佐渡」まで至ったということだろう。
 その後、北九州圏勢力は独自の“藻塩”生産で力をつけ、舟作り技術で凌駕するようになり、祭器に珠を加えたのでは。
 最後が「本州(大倭豊秋津嶋)」。

 ここまでの8島(大八嶋国)にはそれぞれ定住する部族が執り行う立派な祭祀場所があったに違いない。
 さらに6つの小島(児嶋、小豆嶋、大嶋、女嶋、知訶嶋、両児嶋)が続くが、最初の2つ以外は、名称から場所が推定できない。
 よく考えれば、これらの島の名前が現在全く残っていないことも貴重な情報と言える。オノゴロ島と全く同じ事態。つまり、オノゴロ島型祭祀は消し去られたのである。習合的に新しい祭祀様式に統合されたのだと思われる。

 そもそも、「大八嶋国」の筆頭が淡路島と言うことは、この一帯を拠点としていた、力を持つ“海人”がいたということ。すぐれた造船技術と航海技術を持ち、海戦力も圧倒的だったに違いないのである。淡路島から関門海峡まで船を操るだけでも、並大抵な力ではない。日に2度の干満で、潮流が変わる内海であり、その間どこかに退避する必要がある。まあ、その中心が6島だったということでもあろう。
 だが、この部族は、呪術の普遍性が低く、瀬戸内海主義だったのではないか。祭祀の主流は、オノゴロ島と6つの小島だったということ。(淡路島の「絵島」あるいは「伊弉諾神宮」と同じ緯度の山頂で同時に朝日を拝んだのではないか。)
 これでは、祭祀スタイルをいくら広げても、国としてまとめることはできまい。
 別な視点で眺めれば、船の技術が進み、他の場所でも作れるようになったため、たいした力が発揮できなくなったということだろう。それに、良質の船材が採れた瀬戸内海の小島に拘りすぎたことも大きい。木は無尽蔵ではないから、繁栄は長続きしなかった。やがて、船用の木を求めて散り散り。集落も廃れ、島の名前も忘れられたと考えられる。
 こうして、覇権は北九州地区に移ってしまったと考えれば合点がいく。

 北九州圏の勢力が、日本海側の交易に熱心だったのは、海流に乗り易いこともあるが、淡路島-四国-瀬戸内海小島には、オノゴロ島祭祀勢力が残存しており、手出しすると大火傷を負いかねないと見ていたせいもありそうだ。 →続く[来週]

 --- 参照 ---
(1) 「古事記とオノコロ島伝説をめぐる」 ひょうご歴史ステーション
  http://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/legend2/html/010/010.html
(神社関係の情報源) 「神奈備にようこそ」+「玄松子の記憶」
              
(オノコロ島神社の写真) (C) 関西フォトライブラリー http://kansai-photo.com/index.html


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