↑ トップ頁へ

2009.6.25
 
 


銅鐸を考える[続]…

 素人にもかかわらず、銅鐸の話をしつこく続けているが、こだわる理由を少し書き留めておきたくなった。
  → 「銅鐸文化圏とは」「銅鐸を考える」 [2009年4月16日/6月4日]

 もちろん、証拠が無いにもかかわらず、銅鐸を農耕祭器と見なしている人達ばかりと聞いたからだ。これは、なにか書かねばと思った。
 一般論ではあるが、初めから結論を決めてかかる人が主流になってしまう組織からは、創造的な研究成果が期待できなくなるからである。

 具体的に言えば、出土品を精緻に分類し、年代を推定することに全力投球する人ばかりになるということ。もちろん、斬新そうな分類も登場するだろう。しかし、いかに頑張ったところで、試しにデータを整理した以上のものではない。どうして、そんな分類をするのかと聞かれても、答えられないからだ。
 イノベーションを生み出そうというのなら、何時、どう使う用具かという仮説に基づいて、機能分類を作り、検討すべきである。もちろん簡単なことではないが、だからこそ、イノベーティブな成果が生まれる可能性が高まるのである。

 こうした姿勢をとれるようになると、素人の提起を歓迎するようなる。もちろん、何でも歓迎という訳ではない。
 ガツンと一発型の見方とか、「気付き」につながるヒントが含まれているような指摘を期待するのだ。一般に、同業者や仲間うちでは、これが難しいから、素人の頭を活用するのだ。学者とビジネスマンの違いはここいら辺りが特徴的である。
 学者の一般的感覚は、素人が大騒ぎしてくれ、世間の注目を浴びるのは有難いが、トンデモ論はご勘弁というところでは。
 例えば、 巨大な吉野ケ里遺跡の存在をもって、邪馬壱国は九州だという論旨の主張が繰り広げられると、時代が全く違っており、そんな主張はお話にならぬと感じてしまうのである。ここから脱しないと、素人の提起を利用することは難しい。主張の底流に流れているものを読み取る力が必要なのである。
 この場合、素人は何が言いたいかは自明である。・・・北九州に巨大な経済圏が存在しており、吉野ケ里は巨大王国だったかも。どうして大和地区が、それほどまでに繁栄していた北九州地区から覇権を奪えたのだ、と問いかけているのである。

 銅鐸で言えば、使用方法や機能の説明もできないのに、農耕祭器と決め付けるという姿勢にあたる。
 一般に、異質な仮説が提起されたら、それは、飛躍のチャンスでもある。違う考え方に触発され、一段高い見方ができるようになるかも知れないからだ。反論を考えるより、そんな発想がうまれたきっかけを理解することの方が重要なのである。

 例えば、日本人騎馬民族説で考えてみよう。
 先ずは、なにがきっかけかで生まれた仮説か、自分の頭で考えること。これが重要なのである。
 古墳時代を一括り考えるのは無理があると感じたからでは、という程度でもよいのだ。
 騎馬民族説が正しいかにこだわったのでは駄目。この説は、古墳の機能が変化した点に着目せよと指摘していると考えるのだ。従って、騎馬民族説似「プラスになるとは限らない。それどころか、それと対立する説を補強する見方につながるかも知れないのである。
 つまり、古墳が首長の墓というだけなら、前方後円墳だろうが、他の形だろうが、「部族長の墓+祭祀場」というだけの話で、たいした違いはない。墓の構造や大きさは重要な問題ではなくなるのである。
 しかし、祭祀専門家が執り行なう呪術的行事から、首長が執り行う“王権を誇示する”祭祀に変化したとすれば、大事である。もし、同じ古墳で祭祀を続けていたとすれば、なんらかの変化が生まれた筈だ。それは何か。
 要するに、機能分類で考えることができるようななるということ。具体論はわからぬが、家の埴輪の有無が決定的に重要かも知れぬし、古墳の周囲に手下の墓があるかの違いがポイントからも。・・・ともかく、こんな発想で、新しい分類で検討することで古代社会を解明しない限りなにもわかるまい。

 ただ注意すべきことがある。それは、過度の文化論に落とし込めないこと。農耕民族と騎馬民族の発想は違うというような、ステレオタイプの見方を取り入れがちだからだ。これを始めると、マインドセットされ、新しい見方ができにくくなるのである。

 銅鐸でも同じことが言えると思う。

 小生は、たまたま、和辻哲郎の「銅鐸文化圏v.s.銅剣/矛文化圏」説を読んだことがある。昔、よくわからないにもかかわらず、全集を読破したことがあるからだ。「風土」や「古寺巡礼」が大学受験勉強の定番とされていた時代の話。今考えてみれば、面白い話ではあるが、、文化を鑑賞する以上のものではないと思う。ただ、鋭い感受性には感服する。
 この説の端緒は、国土を統一した「三種の神器」勢力の文化v.s.力を失った「銅鐸」勢力の文化ということのようだから。
 つまり、以下の疑問には、全く答える気がないのである。
   ・被害が多くても戦闘をしかけたのは、どのようなメリットがあったのか?
   ・国土統一の流れが生まれた時代背景をどうように考えるべきか?
   ・大和勢力が統一に成功した根拠は何なの?
 本来は、ここの議論が重要なのである。これがわからない限り、銅鐸の意義がわかる筈がない。

 そう言われても、ピンこないだろう。
 どういうことかと言えば、しっかり議論していれば、「鉄剣/矛文化圏v.s.銅剣/矛文化圏」という結論かも知れぬということ。
 技術的に進んでいる「鉄」経済圏が、遅れている「銅」経済圏を凌駕したというストーリーである。もちろんトンデモ論だが、それなりの論理は作れる。
 鉄器の剣と矛を入手した先進勢力は、不要となった銅器を再溶解して銅鐸にしたというだけの話。鉄器は錆びて朽ち果てるので、出土品は銅鐸だらけになったと見るのである。もちろん、溶解前の銅剣/矛も残る。
 だいたい、青銅製武器は脆いものだ。槍のように突くしか使いようがなかろう。鉄の盾と剣に挑めば、叩き折られるのが関の山だ。武器としての価値は低すぎるのである。にもかかわらず、それを後生大事に使っていた勢力は軍事的に劣位荷ならざるを得ない。それだけのこと。
 それこそ、鉄製武器で重装備した勢力なら、銅鐸を戦闘音楽器として使ってもおかしくないのである。オスマントルコの行進曲で欧州は震え上がったそうだが、銅鐸の音は、強力な戦士軍団がやってくる恐ろしい音だったのかも。

 --- 参照 ---
(荒神谷遺跡:発掘現場の写真) (C) 「松江周辺の観光地壁紙集・U」   http://matsue.art.coocan.jp/index.html


 歴史から学ぶの目次へ>>>     トップ頁へ>>>
 
    (C) 1999-2009 RandDManagement.com