表紙 目次 | 2014.5.16 伊豆山の由緒を眺めて東京の神社を見慣れていると、伊豆山神社は結構小さい社殿であり、境内も狭い。奥山への道はあるものの、すでに開発地に囲まれた状態だし、山道入口からしてアンチ観光産業的住民が存在していそうな雰囲気とくる。だが、それこそが、いかにもこの地らしき印象を与える。 歴史の荒波に洗われ続けているということ。それを感じたいなら、ココは日本屈指の神社と言ってよいのではなかろうか。なんでもかんでも勧請してくるような氏子が支える神社ではないのである。 十国峠の話をするとどうしても、その辺りに触れたくなる訳である。 → パノラマ景色目当てのハイク [2014.5.6] まず、現在の伊豆山神社社殿だが、尾根筋を切り開いた境内に鎮座する。海から長い階段があり、これが観光的にはウリとなっている。 ・・・相模湾-伊豆ヶ浜-自動車専用道路-駐車スペース(ポンプ場横)-16段目走り湯神社-173段宮下市道-220段国道-648段市道(旧道)-657段鳥居前-837段本殿境内 階段のメインテナンスはことの他大仕事だから、バイパス道路で代替してしまうのが普通だが、そうならなかったのは、地形上便利ということもあろうが、上り感覚が原初の信仰に根差すものだった可能性もあろう。 ところで、現在のお社の地は3遷目とされる。 しかし、そのように見るよりは、もともと3つの宮があったと考えた方がよいのではなかろうか。小生は、「上」と「中」が維持できなくなっただけと見る。 【上の本宮】@日金山(十国峠) 現在は宮消滅 ・・・山の別称: 久地良山,伊豆高嶺,火之峰,許々比之森 箱根路を 我が越え来れば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ 源実朝 【中の本宮/本宮山】(@七尾) ・・・山の別称: 牟須比峯 ちはやぶる 伊豆のお山の 玉椿 八百万代も 色はかはらし 源実朝 【下の本宮】(新宮こと現社殿域) 上記に源実朝(1192-1219)の歌を示したのは、この神社は鎌倉幕府との関係で観光地化しているからである。ウリは実朝ではなく、頼朝と北条政子の「愛」。 ついでだから、その件を引用しておこう。静御前が義経を偲んだことに立腹した頼朝に対して、政子が伊豆山でのことを思い出して諌める話。 静先ず歌を吟じ出して云く、よしの山みねのしら雪ふみ分ていりにし人のあとそ恋しき次いで別物曲を歌うの後、また和歌を吟じて云く、しつやしつしつのをたまきくり返しむかしをいまになすよしもかな誠にこれ社壇の壮観、梁塵殆ど動くべし。上下皆興感を催す。二品仰せて云く、八幡宮の宝前に於いて芸を施すの時、尤も関東万歳を祝うべきの処、聞こし食す所を憚らず、反逆の義経を慕い、別曲を歌うこと奇怪と。御台所報じ申されて云く、君流人として豆州に坐し給うの比、吾に於いて芳契有りと雖も、北條殿時宣を怖れ、潜かにこれを引き籠めらる。而るに猶君に和順し、暗夜に迷い深雨を凌ぎ君の所に到る。また石橋の戦場に出で給うの時、独り伊豆山に残留す。君の存亡を知らず、日夜消魂す。その愁いを論ずれば、今の静の心の如し、豫州多年の好を忘れ恋慕せざれば、貞女の姿に非ず。形に外の風情を寄せ、動きに中の露膽を謝す。尤も幽玄と謂うべし。枉げて賞翫し給うべしと。時に御憤りを休むと。小時御衣(卯花重)を簾外に押し出す。これを纏頭せらると。 [吾妻鏡 1186年4月8日] その手のムードでこの神社を眺めるのも、それはそれで結構なことだが、この神社への尊崇はその程度の古さではない。 ここは、修験道の拠点でもあったからである。当然ながら、そのお社もあるが、極めて小さなもの。 【足立権現社】役小角が祀られている。 説明がなければ、村の鎮守の森の片隅にある表示なき、いずこからか勧請してきた神様を祀ったものと見なしてしまいそうな状況。699年に、伊豆大島に配流され、そのことで、伊豆修験の開祖とされている訳である。 頼朝が出兵に当たっての勝利祈願に訪れたというのは、この地に修験道行者集団が存在し、その呪法に頼ったということでもあろう。 後白河法皇が編纂した「梁塵秘抄」(1180年頃)にも、「四方の霊験者は伊豆の走湯、信濃の戸穏、駿河の富士山、伯耆の大山」と記載されているそうで、独自の活動が大々的に営まれていた訳である。 ここは伊豆箱根地域なのだが、山岳宗教的には富士山とは無縁なことがわかろう。関係するのは、加賀の白山である。実際、境内で「山に繋がる」位置を占めている。もともと今のように奥宮が存在していたとは限らないが。 【白山社】 小生は、この発祥は熱海のお隣、<湯河原(土肥)>側と見る。 武人、二見加賀之助重行が白山信仰普及に加賀より出立し、湯河原に住み着いたとさ れているのだ。そして、渓谷から湯が湧いているのを発見。新しそうに見えるが、出自はかなりの古さ。 あしがりの 土肥の河内に 出づる湯の よにもたよらに 子ろが言はなくに [万葉集#3368 相模國歌] もちろん、<箱根>にも、白山神社(湯本431)が存在する。こちらは、加賀から来訪した浄定が738年に温泉を湧出させ、塙瘡を治癒させたとされる。温泉の守護神ということになるのだろう。 もちろん、ここだけにとどまらない。函南-畑毛、沼津-重寺越地、伊豆の国-白山堂にも白山神社が存在している。 伊豆山の場合は、もともとの走り湯信仰に習合したということか。 【浜宮 走湯神社】 ここの温泉は、洞窟のなかで滾々と湧き出ており、樋を伝わって出湯後にパイプ配湯となっているが、地形を考えれば海に囂々と高温の湯が流れ出て朦々と湯気が立ち上っていた筈である。 実朝がその情景に畏敬の念を覚えたのも当然のことだと思われる。 伊豆の國や 山の南に 出づる湯の 速きは神の 印なりけり はしりゆの 神とはむへそ いひけらし はやきしるしの あれはなりけり わたつ海の なかにむかひて 出づる湯 いづのお山と むべも言ひけり <熱海>の湯前神社や、<伊豆の国>の湯谷神社(古奈)といった温泉の神社の系譜とは違いそう。これらは、入浴することで、霊気を得るとの純粋な温泉崇拝のように映るからだが。 伊豆山神社に詣で、熱海で湯につかるという近世の風習が生まれてからの信仰ということ。この発想に染まってしまうと、「伊豆」とは「湯出」のことになってしまう。 言うまでもないが、伊豆とは海と山の国。 万葉集の相模國歌だけでは、アンバランスだから、伊豆山に関係しそうな歌も紹介しておこう。 ま愛しみ 寝らくはしけらく さ鳴らくは 伊豆の高嶺の 鳴沢なすよ [万葉集#3358 駿河國歌] 現代では、「伊豆の高嶺」と言えば天城山になりかねないが、十国が見渡せる山こそが、この辺りの高い山であったと考えるのが妥当。ちなみに、鳴沢は伊豆山から湯河原方向に行くと出会う地名でもある。 そして、白波とは、おそらく、十国峠からの海の情景。 伊豆の海に 立つ白波の ありつつも 継ぎなむものを 乱れしめめや [万葉集#3360 伊豆國歌] 海と山という観点では、気になることがある。 本宮へと足を延ばすと、そこには別の神社が同居しているからだ。 【結明神社本社】 ご祭神は日精・月精だという。 もちろん、現社殿への参拝路にも祀られている。「里宮」と考えるべきだろう。 【結明神社】 これが、何故に、海と山に関係するかと言えば、海に浮かぶ初島の神社のご祭神、初木姫に繋がっているからだ。この姫が、日精、月精を引き取り育てたとされているのである。 【初木神社】@初島 いかにも、海人の超古層らしさを感じさせる信仰である。太陽と月が一組となっている上に、「木」信仰がかぶっているからだ。今や、伊豆で木の名称がが残っているのは、<熱海>の来宮神社や<伊豆の国>荒木神社(原木)くらいなのだが。 ちなみに、伊豆山神社のお守りは梛(ナギ)の葉である。[→2009.5.28] 常緑で、切れない葉の樹木ということで特別視されたのでは。磐座儀式には、鏡とこの葉がことのほか重要だったのだろう。 とくれば、ことはこれだけですむ訳がない。 由緒によれば、日精信仰のもともとは、松葉仙人という説もあるらしいのである。海から神鏡持参で渡ってきたというのである。いかにも南方系の信仰である。 それは、後付けという訳ではなさそうなのだ。 と言うのは、伊豆山境内には、もしかすると元々の信仰かも知れないと思しきお社があるからだ。 【雷電社】 ご祭神は火牟須比命と聞きなれない。 近世は「光の宮」とも呼ばれていたという。 もちろん、<函南町>にも関係する神社が存在している。雷電神社(大土肥,軽井澤)と火雷神社(田代)。 いかにも火の神という印象を与えるが、火山信仰ではない。そちらの本家本元は三宅島から伊豆半島白浜を経て三島に鎮座した三嶋大社。 そして、秋葉神社や愛宕神社とも系譜が異なるようだ。 ともあれ、山中の磐座での鏡を用いる呪術が行われていた可能性は高そう。土着山信仰に渡来宗教儀式がのかってきた感じがする。 もともと、この辺りには、山神社が多かっただろうし。サンと読んだり、ヤマだったりと色々だが、本質的には生活に結する信仰なのだろう。 <伊東>(池,荻,鎌田,宇佐美字山田)、<三島>(佐野,松本,市ノ山,元山中,塚原新田,笹原新田,佐野)、<沼津>(戸田,高島町,大岡,西熊堂,石川,戸田3669,市原,本字市道町,本字蓼原町,東間門)、とそこかしこにある。 同じ山信仰でも、直接的に生活と繋がらない富士山信仰とは異なる。この辺りでは、<三島>の浅間神社(芝本町)以外はみかけない。ところが、伏流水が多い<沼津>だと、生活に直結しているから状況は相当に異なる。浅間神社だらけ。(三枚橋鐘突免,岡宮,青野,柳澤,市原899,市原560,井手,根古屋,一本松,浅間町) 豊臣秀吉の小田原北条攻めの過程で、伊豆山は完全焼き討ちにあったため、古代の流れを考古学的に調べることはほぼ不可能だし、廃仏毀釈運動で信仰の姿が一変してしまったから、古層の信仰を知るのは容易なことではできそうにないが、過去の息吹が現代にまで続いているのは間違いなさそう。(分離以前は、今は鳴沢近くにある般若院が別当寺。) おそらく、だからこそれを守り続けてきた祖先への感謝も忘れていないのだろう。参道には、そのお社がひっそりと建っている。どう見ても、祖霊が山に戻っていくということで建てられたものではないのである。 【祖霊社】 (Source) 総鎮護 伊豆山神社 境内・社殿 静岡県神社紹介 静岡県神社庁 テーマ展示「伊豆修験の道をゆく」 國學院大學学術資料館 2013年5月17日 「東鑑」 http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma.html 二見加賀之助重行による発見説 ようこそ湯河原温泉へ 湯河原温泉観光協会 箱根全山-白山神社 箱根町観光情報ポータルサイト 歴史から学ぶの目次へ>>> 表紙へ>>> (C) 2014 RandDManagement.com |