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■ 孤島国JAPAN ■ 2009.8.20 |
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米信仰…〜 米信仰は通常の宗教とは違う 〜米信仰が今もって生きているというような話を書いたが、しっくりこないビジネスマンもおられるようだ。 → 「孤島国根性」 (2009.8.6) それはそうだろう。 「信仰」と呼べば、祭祀によって、お米のできが決まると考えていた古代のイメージが生まれてしまう。そんな信仰が、そのまま残っているとは思えない。 それに、普通、宗教と言えば、生活(貧困)・命(病気/老化)・戦争の悩みに対応するもの。それとも大きくかけ離れているからだ。 しかし、ご飯に関しての見方が、どれだけ「合理的」な発想から離れているか、自省してみるとよい。 精神の古層に隠されている宗教心がありそうな感じがしてくると思うが。 例えば、ビジネスマンが使うJargon。 ・「肉食人種」 ・「ヨコメシ」 前者は、日本人の優越性を言いたいがための表現だろうか。多少理屈っぽい人だと、仏教徒だからと言い出すかも知れぬが、そんな意識とは違う。“ご飯”を食べない輩には、物事は理解できまいと言いたい時にでてくることが多い。まあ差別的な言辞と考えてよいだろう。 このことは、食べ物が日本人のアイデンティティとして重要なことを物語る。まあ、それはどの民族でも同じかも知れぬが。 後者の発祥由来は知らぬが、“外人”との食事にもかかわらず、“メシ”と呼ぶところが面白い。会合の基本は“ご飯”を一緒に食べることだから、こんな表現が生まれたに違いない。 ビジネスマンなら、宴会の〆は、“ご飯”か“お茶漬け”という、シキタリに従うことが多いから、違和感なき言葉でもある。 まあ、こんなことは風習ぐらいに思っているのが普通だ。 〜 米には不思議な力があると感じる人は少なくない。 〜 間違ってはこまるが、これを米信仰の一端と言い出したいのではない。ご飯に対する姿勢を、まず確認して欲しいのだ。 その上で、プロフェッショナルな方々の言動を思い起こすとよい。スポーツ選手や演奏家のインタビューを聞いたことがあれば、“お握りのお蔭で成功”といった類の話を耳にしたことがあろう。 コレ、日常の食生活を続けないと、調子が崩れるというだけの話だろうか。あるいは縁起担ぎといった程度のものだろうか。 高校生あたりに、そこいら辺りを質問してみると、その深層心理がわかってくる。「お米を食べないと力がでない」そうだ。 古代人の、お米の霊的力を頂戴する感覚と瓜二つではないか。 そう、実際、ご飯をもりもり食べたお蔭で、試合に勝ったりするのだ。 そうは言うものの、カロリー摂取の実態を見れば、米のシェアは低下一途なのだ。現実の食生活を見ても、朝食がパンの家庭は多いし、夕食にしてもご飯の量は少なくて、お数が主体。 ご飯は、「主食」の役割を果たしている訳ではない。これが現実。 ところが、「主食」感覚は消え去らないのである。それどころか、ご飯と味噌汁こそ生活の基本と語る人だらけ。 グローバル経済になると、民族のアイデンティティが求められるが、日本では、自動的に“米”食が選ばれるのだ。 ただ、実際に、ご飯が大好きな人も多い。それを信仰のように見なされたりすれば不快かも。そんな人には別の説明をしようか。 ステーキを注文すると、パンにしますか、ライスにしますかと聞かれるのを不思議に思わないか。ステーキについてくるのは、“ご飯”ではなく“ライス”なのだ。 実につまらなぬ話だが、結構、本質をついていると思う。 〜 米には日本ならではの美学がつきまとう。それこそが信仰。 〜 日本の食事には、“和”としての「美学」がつきまとう。その核が“ご飯”。それは、「美しきもの」なのだ。 従って、そこから離れる時は、ライスと呼ばれる。 ただ、この「美学」は特殊。テーブルセッティングや料理のプリゼンテーションといった、華美を旨とする人工的なものでは駄目。お米に自分の情感を入れ込み、陶酔的になって、初めて浮かび上がる美しさなのである。 要するに、見た目の美しさではなく、日本の大地と水と太陽で生まれた食材だから輝いているという、精神上の「美学」なのだ。 これは、お米を神から授かったと考えた古代人の感覚とたいして変わらない。違うとしたら、古代人は、お米に「魂」が込められていると感じていたが、現代人はそんな発言は慎むというにすぎない。 お米に対するこうした気持ちは、弱まるどころか、強まっている感じがする。 それは農産物の旬がなくなり、海外産品だらけになっているから。 四季を感じさせられるものは、実は稲の耕作だけといっても過言ではなさそうだ。 春の耕しから始まり、水を貯め、梅雨を経て、太陽の光が降り注ぐ夏。元気よく育った稲も、秋になると黄金色になり、実った穂が垂れ下がる。この連続するイメージを、“ご飯”に感じてしまうのである。 従って、こうしたイメージを壊しかねない輸入米は唾棄すべき存在とされてもおかしくない。 寒さで手がかじかむ冬、じめじめした梅雨、暑くて堪らぬ夏、といった気候は、誰が考えても、生活する上で嬉しいものではなかろう。しかし、それを尊び、喜ぶのが日本人とされているのである。四季の存在こそ世界最高という感覚無くしては、日本人にあらずと言ったところ。 ところが、生活環境が都会化し、グローバル経済も進んでくると、この“誇り”が失われていく。そんな時に、心の平安をとりもどしてくれる、最後のよりどころが「お米」なのでは。 こうした感覚を、日本人の「信仰心」と呼んでかまわないのではないか。 何が言いたいのか、おわかりだろうか。 日本の一番の魅力とは、四季とか国土ではなく、それを信仰し続ける人々なのである。 そんな国を探しても、そうそう、見つかるものではない。大陸からみれば、蓬莱の島に映って当然なのである。 〜 信心が消えつつあると、間違った解釈をしないように。 〜 ついでだから、信仰心についても触れておこう。 日本の歴史的経緯から考えて、宗教組織に対して胸襟を開く気にならない人が多いのはわかる。信心を否定する人が多いのは当然かも。(1) しかし、アンケート調査結果がそうだからといって、信心から程遠い状況にあると考えるのは無理があるのでは。自分が存在することの根拠を、大自然と祖先に置くことこそ、宗教心ではないかと考えるからだ。もしそうなら、日本人の大多数は信仰状態にあると言えるのではなかろうか。 それに、統計数字は現実感覚とかなり乖離している感じがする。 例えば、お墓参りが低調とは思えまい。お墓ビジネスも大繁盛だし。 供養こそ宗教心というのが、日本の普通の考え方ではないだろうか。お盆やお彼岸の行事はクリスマスパーティーと同じような風習にすぎないと考える訳にはいくまい。 それがいかに重要視されているかは、帰省が大変だから、お墓の故郷からの移転を考えている人が少なくないという点からもよくわかる。ただ、この動きは、先祖伝来の墓の消滅と、「家」の宗派からの脱退を意味しそうだ。従って、信者は減ることになろう。しかし、信仰は残る。 お墓参りだけではない。 節目での神社へのお参りを欠かさない人が多い。というより、ただならぬ数の参拝者が訪れるのではなかろうか。しかも、ほぼ全員が、お賽銭やお札の購入という形で、神社の宗教活動を支援する。そこまでしているのに、自分を神道信者と考えていない人が大多数。当該神社の氏子ではないからだ。従って、統計数字は間違っている訳ではない。 コレ、無党派と表明する人が大多数という状況と似てはいないか。政治信条が無い人だらけという訳ではなかろう。政党組織や、“まことしやかな”思想を信用しかねているだけ。これから類推すれば、宗派に帰属したくはないが、信仰心は喪失してはいないということだろう。 〜 皆、古代信仰をできる限り残したいのだ。だから、米信仰は残る。 〜 そんな信仰体質を考えていると、原点が見えてくる気がする。古代から引き継いできた情感の発露が、日本人にとっての信仰なのでは。それは、ひょっとすると、古代宗教の原型なのかも。 特徴としては、以下のようなところか。 ・祖先の霊を大切にする。(霊は神になるし、降臨することもある。) -輪廻思想は合わない。 -復活思想はこまる。 -偶像は霊の対立概念だ。 -無常感は霊の対立概念ではない。 -死者との交流儀式であるお墓参りを重視する。 (死者の霊に留まって頂きたいのである。) ・ずっと続いてきた「神」への信仰を止めることはできない。 -自分も周囲も、ご利益を感じてきたから。 -新しい「神」の登場も歓迎する。 (神の数は増えていく。) -そのような新しい「神」と従来の「神」との混交は喜ばしいこと。 (対立より、妥協的な融和を目指す。) -従来の「神」の範疇から外れれば、信仰対象が変わる可能性はある。 (例えば、「ホトケサマ」、「テンシュサマ」は神様とは違うという考え方。) ・もともと経典などなかったため、経典の絶対視は好まない。 -言葉に魂が吹き込まれるとの感覚が残っている。 -神が言葉を作ったという思想は肌が合わない。 -集団の不文律形成を重視する。 (言葉の論争は苦手である。) ・神と個人との一対一型の信仰には馴染まない。 -神への信仰告白行動は重視しない。 -神との一体感を味わえる集団祭祀を重要視する。 -人間関係上必要と思われる宗教的儀式の挙行を最優先する。 (家族や一族郎党・地域の儀礼が紐帯となっているということ。) (これは先祖崇拝の一種かも。) もし、このような見方が妥当だとすれば、米信仰は、現代の精神生活のなかで重要な役割を果たしているのではないか。 そう、“癒し”である。 --- 参照 --- (1) [ 宗教団体を信用するか、自分が信心深いか、という世界各国の比較調査結果が掲載されているが、日本人の順位は驚くほど低い。] 電通総研/日本リサーチセンター 編: 「世界60カ国 価値観データブック」 同友館 2004年 「孤島国JAPAN」の目次へ>>> トップ頁へ>>> |
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