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2009.9.3
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温泉信仰…

〜 日本が温泉場だらけなのは確か。 〜
 温泉文化こそ、日本独自だと言いはる人が多い。もちろん間違いではない。
 日本は圧倒的な温泉国だからだ。
 1,480の市町村に3,139の温泉地があり、利用源泉総数は19,205で、未利用は8,885。宿泊施設は14,907あり、平均収容定員は百名弱のようだ。(1)

 これだけ交通至便になっても、温泉場の数が相変わらず多いままなのには驚かされるが、色々なタイプが求められているということか。
 まあ、湯だけとっても、多種多様。
 水道水を温めたのとさほど変わらない感じの湯もあるが、海の近くの塩分を感じる湯に入ると、体があったまる。重曹分が多い湯だとさっぱり感があり、これまたかなり違う。なかには、肌が溶けるのかと感じさせる強アルカリ泉もある。一皮剥け綺麗になれるかのかと期待させたりして。
 見た目からして違う湯も少なくない。火山から離れた鉱泉では鉄錆色が多いし、火山近辺ではふわふわしたものが浮遊している湯に出会える。垢が浮いている訳ではないから、なんとなく不可思議な気分になる。成分も、白い石膏、黄色の硫黄、明礬系など色々。
 もっとも、硫化水素ガス臭紛々な湯船もあったりして、大丈夫か気になったりするが、そんな雰囲気が山らしくて嬉しいということか。

 風呂に浸かるのが好きだと、色々と試して見たくなるのは自然な流れかも。
 そうなると、海外で、さらに珍しいタイプの温泉を探すということになりそうなものだが、人気は今ひとつのようだ。海外では、日本のように、温泉にそれほどこだわるとは思えないから、満足感が薄いのではないか。

〜 現代の温泉文化は伝統とは無縁である。 〜
 と言うことで、温泉にはそれなりの魅力はある。だが、これを温泉旅行として眺めれば、その魅力はたいしたものではないのでは。
 タンクローリーで湯を運んできたり、深井戸を掘って温い水を汲み上げて加熱した“温泉”施設が至るところに存在するからだ。100m掘れば温度が2〜3度上昇するのだから、渋谷の繁華街だろうが、その気になれば温泉場はどこにでも作れるのである。
 こう言うと、都会を中心に、多忙な人達が、“温泉”風呂屋に殺到しているイメージを持ちがちだが、そうとも言えない。このムードは、地方の方が強い感じがするからだ。
 温泉こそ観光の目玉ということで、穴掘りとスパ施設作りに励んでいるのが現実。今や全国至るところにそんな施設がある。
 ローカル線の駅から、車でずっと奥に入った場所で見かけたりする位だ。
 なかでも、驚かされるのは、そんな人工的な雰囲気の風呂場の説明。古来の「温泉信仰」の延長とされていたりするのだ。まあ方便といえば、それだけのことだが。
 これこそ、日本独自の発想と言わざるを得まい。

〜 古代人の温泉入浴とは宗教行為だった。 〜
 現代の温泉入浴に、伝統的「温泉信仰」が流れていると語る人は少なくない。もちろん、その精神が受け継がれている温泉場もない訳ではないが、稀。
 温泉信仰が、日本人の精神の低層に残っているが、米信仰とは違って捨てる方向にあると見た方が妥当では。
     → 「米信仰」 (2009.8.20)

 そう思うのは、人々の発言から見て、温泉に魂を感じているようには見えないからだ。

 古代から病気や傷を治すために利用され、神聖なものとして崇められていたことと、現代の温泉は体に良いという感覚は全く別モノ。
 温泉場とは、宗教空間であり、風呂場ではなかった筈だからだ。その状態では、おそらく、入浴と祈念は不可分。
 今や、入浴時に“霊泉 ”に祈りを捧げる人を見かける温泉場は例外的存在だろう。(本気の信心なら、白装束で祈りながらの入浴が基本だろう。)

 現代の温泉文化が受け継いでいるのは、古代の温泉信仰ではなく、江戸の町湯や銭湯といった、風呂文化に近かろう。その感覚は、十返舎一九「続膝栗毛」でわかるかも。
 「上毛の國草津は、寔に海内無双の霊湯にして、湯宿の繁昌いふばかりなく、風流の貴客絶えず、彌次郎・北八も、今日湯宿に着きて、壺ひと間を借りきり、」(2)
 湯治場としての役割を越え、風流というか、まあ、お遊び客が少なくなかったのである。

〜 古代人は、温泉に霊を感じたのだと思う。 〜
 古代人は、おそらく、温泉を“薬効の湯”とは見ていなかったのである。現代人とは全く違う感覚だろう。
 わかり易くいえば、湧出する温泉に“霊威”を感じただけのこと。
 この土着信仰に仏教が融合したのは間違いない。そこらじゅうに、“霊験”あらたかな、弘法大師・行基の湯があるのだから。
 それは、当然の流れかも。仏教は、伝来当初から、沐浴による、心の浄化を重視したに違いなく、それは水を尊んだ伝統信仰と極めて親和性が高いのだ。

 要するに、第一義的には、温泉場とは“禊祓”の地とされたということだろう。作法としては、仏教的な沐浴が主流になったということ。
 ただ、温泉入浴で、病気が治癒したり、心の問題が消えさり人間として蘇生することもあっただろうから、その力を崇めるのは当然だ。
 大きなこと図るには、この気力を得たいということで、権力者がたびたび入浴したのは、その意味が大きいと思われる。
 天皇が即位の後、初めて新穀を神に供え、神とともにこれを食する儀式「大嘗祭」には、「廻立殿」で“湯”を浴びて身体を喫ぎ清める行為が含まれていることでも、“湯浴み”の意義は小さなものではなからおう。かなり大きな建物だったようである。(3)

〜 万葉集に登場する温泉話は、現代の感覚とは繋がらないのでは。 〜
 ただ、文人が温泉を愛したため、こうした感覚にオブラートがかぶせられている。
 万葉集を古代の状況を踏まえて読むのではなく、現代のセンスで読み替えれば、温泉を情緒的なものとして位置づけることは可能だからだ。
 例えば、湯河原温泉は万葉集の東歌(相模國歌)に登場する。
    “あしがりの 土肥の河内に 出づる湯の よにもたよらに 子ろが言はなくに” (万葉集巻十四-3368)
 この歌では感慨がよくわからないから、温泉に入って、その時代を想い起こしながら感傷に浸れる。それはそれで、文芸愛好の流れとしてはよくわかるし、楽しい人も多かろう。

 その一方、郎女が、餌藥の事で「有間温泉」に行っていて、喪にあえなかったので温泉に送ったという歌があったりする。こうなると、“温泉行き”とはどう受け取られていたのか、少し考えさせられるかも。
    “大伴坂上郎女悲嘆尼理願死去作歌” (万葉集巻三-460)

 ともかく、行幸も珍しいことではなかったことは確か。天武天皇の妃となった額田王が、斉明天皇の「紀温泉」への出発にあたり、詠っていたりするからだ。
    “幸于紀温泉之時額田王作歌” (万葉集巻一-9)

 しかし、“温泉行き”のなんたるかが推測できるのは、そんな歌ではない。
 允恭天皇の皇子、木梨之軽太子が「伊余の湯」に流された件を考えるとよい。
 どう見ても、温泉に行って、禁断の恋など忘れ、まともな人間になれという刑だろう。古事記の上巻での神々とは違って、皇太子は人として扱われたのだ。
 冷徹に眺めれば政争に敗れただけとなろうが、悲惨な結末を迎えてしまう。温泉で力を得て、恋を断ち切り、立ち直って都に帰るどころか、妹が追ってきて心中してしまうのである。心中にしても、宗教祭祀そのもの・・・。
    こもりくの 泊瀬の川の
    上つ瀬に 斎杭を打ち 下つ瀬に 真杭を打ち
    斎杭には 鏡を懸け 真杭には 真玉を懸け
    真玉なす 我が思ふ妹も
    鏡なす 我が思ふ妹も
    ありといはばこそ
    国にも 家にも行かめ 誰がゆゑか行かむ
      [木梨之軽太子自死之時所作者]  (万葉集巻十三-3263)

 現代の温泉文化には、このようなことが発生していた、温泉場感覚はなかろう。
 温泉で“まったり”したいと言う人が多いようだし、“癒し”への期待が主流のようだ。
 それは、“生”のエネルギーを頂戴しようという、古代文化とはまったく逆では。しかし、それを、無理矢理でも同じものと考えないと、座り心地が悪いのが現代の日本人の体質。
 君の生き方は伝統から外れているぜとは、言われたくないからだ。

 --- 参照 ---
(1) 「平成21年版環境統計集 7.20温泉利用状況(経年変化)」
  http://www.env.go.jp/doc/toukei/contents/data/08ex720.xls
(2) 「草津温泉 十返舎一九の碑」 草津温泉ふるさと観光ガイド
  http://guide.kusatsu.org/pages/23_jpg.htm
(3) 「平城宮中央区朝堂院の調査(平城第389次)」 奈文研ニュース17
  http://repository.nabunken.go.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=297
(万葉集のテキスト) http://etext.lib.virginia.edu/japanese/manyoshu/AnoMany.html


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