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2009.9.17
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雑炊文化…

〜 日本の文化は、対立的な2つの顔を持つ。 〜
 日本文化に理解が薄いと、「東照宮」v.s「桂離宮」的な見方に陥ってしまいがち。後者は、深遠な思想に裏付けられている作品で、前者のような俗物的なものとは質が違うと考えるのである。
  →  「宗教建築の見方」 (2008.11.17 )

 コレ、食事でいえば、「鰻重」v.s.「茶漬」のようなもの。どちらも日本文化を代表する料理で、後者が特段素晴らしい訳ではなかろう。
 と言っても、何のことやらわからないか。
 演劇なら、「歌舞伎」v.s.「能」だし、襖絵なら、金箔の「琳派」v.s.モノクロの「水墨画」となろう。
 観光地にしても、樹木の借景の下、水を湛えた池を巡って愉しむ、「回遊式庭園」v.s.塀と建物に囲われた、狭い空間に配置された岩と砂を眺めて思いに耽る、「枯山水の庭」となる。
 どれもが、日本らしさを示すものばかり。しかし、対立的に取り上げた両者の共通性を抽出し、日本文化の特徴を語るのは極めて難しい。ところが、対立的な両者を別々なグループにすれば、それなりに共通性が生まれる。そのため、どうしても「精神性」を感じさせるグループを日本文化と決めつけたくなる。その気分は、わからないこともないが、実態から外れている。「歌舞伎」や「回遊式庭園」が、お金をかけただけの軽薄なものと考える人もいまい。

〜 日本の文化の特徴は、その対立する思想を混交させる点にある。 〜
 ここまで語れば、何が言いたいのか、おわかりだと思う。
 片方だけに日本文化の源流を求めようとするのは、間違いということ。日本は「v.s.」ではなく、「and」なのだ。一見、両立し難い文化を、同時に受け入れるのが日本の特徴。
 例えば、「鰻重」食文化と、「茶漬」食文化があったとしたら、それぞれの文化を尊ぶグループが対立して存在することはないのである。ほとんどの人は、どちらの文化も愉しむことができるのだ。実に器用。

 「人種の坩堝」や、「民族のモザイク」といった状況しか知らない人には、こんな体質は理解できまい。文化は常に「v.s.」と考えているからだ。常に屹立状態。
 日本人はそのような対立状況を極端に嫌うようだ。坩堝やモザイクのような言葉で表現するなら、「文化の雑炊」と言ったところか。

 「坩堝」とは、明確な論理性を持つ「統一思想」で、対立を無くしてしまおうというもの。それぞれの人種が育てて来た文化は否定せず、温存する。そのかわり、共通の価値観を持とうという考え方だ。
 これが、上手く運べば、人々の情緒も似てきて、互いに溶け合う可能性はあるかも。しかし、大きなストレスがかかっているのは間違いない。訳のわからぬ普遍思想を打ち出すカルト集団が発生し易い筈である。

 だが、現実の世界は、どう見たところで、「モザイク」が主流。どの国でも、できる限り民族並存の道を模索しているのだと思う。うまくいかないのが普通だが。
 そんな状況で、対立的な文化を同居させることに熱心な人達がいるのだ。「人種の坩堝」主義者や、「民族のモザイク」をしかたなく受け入れている人達には、仰天する話だろう。

〜 雑炊文化を好むのは日本人だけではないか。 〜
 このことは、日本人の、「文化の雑炊」志向が理解できない限り、日本文化はわからないということ。
 と言うか、そんなことは日本人なら誰でも知っているのだが。

 クリスマスイブを愉しんだすぐ後、大晦日にはお寺の鐘の音を聞きながら、煩悩を思う。ところが、その翌日には神社に初詣に行き、お賽銭を投げ入れ、二礼二拍手し、じっくりと祈願し、一礼する。これだけで、新しい年が始まる感慨が湧き、心が洗われた感じまでしてくるのである。
 そして、節分になれば、豆撒き。続いて桃の節句。中国文化を好んでいるかと思いきや、バレンタインデーでは全国あげて大騒ぎ。見方によっては、お祭り好きで、実に軽薄な民族に映るかも。ところが、春の彼岸になれば、お墓参りに出向き、静かに故人を偲ぶのである。
 こんなパターンが一年中続く。

 一生についても同じようなもの。
 誕生や、七五三といった子供時代は、神社への参拝を欠かさない。両親世代の信仰の深さを示すものと見てよいのでは。それなら、親離れした若者は違うかと思いきや、これが逆。若者の方が参拝に熱心だったりする。今や、受験や恋愛も神頼み状態だとか。お守りも若者の要求に合わせたファッショナブルなデザインなものが少なくないらしい。
 それなら、結婚も神の御前で挙式かと思いきや、式は教会という人が大半。当人の希望であるし、親類一同もそれが当然と考えているのだからすごい。
 そして、亡くなると、ほとんどの場合、お葬式ではお経が唱えられる。親しかった人々が集まり、皆、お焼香。その後もお寺で法要が営まれ、成仏できるように僧侶と共に念じるのが普通。
 神道、キリスト教、仏教が雑炊的に存在しているのだ。これこそが、日本の特徴。

 ただ、「雑炊」であって、「闇鍋」ではない点を忘れてはなるまい。
 なんでもかんでも入れる訳ではなく、不味そうな部分は捨てさる。違和感なく鍋に入れることができれば、煮ているうちに、不思議なことに、次第に微妙な調和が生まれてくるものなのだ。そこから、絶妙な味が醸し出されたりする。日本人は、その旨みが大好きなのだ。

 こんな国も珍しいのでは。


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