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2013.6.26
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国家観:似て非なるイタリア型…

「地方分権 v.s. 中央集権」の叫び声は小さなものでないが、政権交代がトンデモない結果したもたらさなかったと同様に、変えてみたものの同じような結末かも。
政権交代以前からわかっていたことは、民主党が自民党以上の大きな政府派ということ。より徹底した税金バラマキシステムへ歩を進めるし、さまざまな規制が増える方向に進むのは間違いない。しかし、両者の基盤たる既得権益層は違うので、旧勢力を壊す動きを始めるだろうから、暫くの間とはいえ、その間隙をついて企業家が活動できるのではないかと考えたが、それは全く手つかず。コリャ用無しである。

この類推からすれば、地方分権化も同じ轍を踏む可能性が高かろう。もともと、経済活動活発な地域は、3割自治だろうが、それなりに工夫して動いているもの。そんな自治体は少数派であり、多くは、回ってくる税金を湯水のように使っているだけ。ただ、それに、国の箍が嵌っているから、歪んだ使い方になっているのが目立つ訳である。理屈は、国が口を出さなければ、まともな使い方になるのに、それができないから無駄が生まれるというもの。
一見、まともであるし、そんな例はあるが、重要なのは、無駄なものでも国の金が回ってくるならなんだろうと消費しようという姿勢が根底にあるという点。投資感覚ゼロ。
これで勝手に使わせたら、良い方向に進むという必然性はどこにもない。

日本の国とは、もともと中央集権的になりにくい文化を作ってきたのである。にもかかわらず、日本国でまとまるのは自明とされており、誰もがそれになんの疑問も抱かない訳である。現行憲法の象徴天皇制にしても、歴史をみれば、そのような時代が圧倒的に長いのだからそれに沿って明文化したものにすぎまい。強権政治が可能な、皇帝や国王とは全く異なる存在である。しかし、教権というか、宗教を体現しているとも言い難い。天皇家にも菩提寺があるからだ。

そんな非中央集権的風土はイタリアに似ているという人もいる。
と言うことで、イタリアを考えてみよう。

有名なのは、地方毎に独自の文化を築き上げている点。日本の「藩」文化のようなもの。都会であっても、京都、神戸、大阪、堺、は近隣都市だがその体質は相当な違い。これをまとめて経済圏樹立というのは、頭のなかでは可能だが、多分無理だろう。
イタリアもそんなところがあるとされる。その根源は、家族の絆にあり、それは土地と結びついるからだと思われる。そうそう、マフィアなど、日本の暴力団そっくりではないか。必要悪と見なす人もおり、利権が絡みそうな場所にウロウロする土着の無法者集団が事実上黙認状態。ギャングビジネスとはいささか趣を異にするのである。

この手の説明はよくみかけるが、論理に飛躍がある。家族の絆と、地方意識の間にはギャップがあるからだ。イタリアの場合、地方が固まっているように見えるのは、カソリックのコミュニティが厳然として存在しているせいと考えるべきだろう。狭い社会で生きていくには、ここでのつながりが一番重要になる。
その基盤の上にたっていた政党が長らく政権を維持してきたのだが、腐敗がこうじて力を失ってしまった。一方、その対立政党は労働組合を基盤とする共産党だが、こちらも大義が通じなくなり、議会左翼とは年金維持連合としか見えない状況に。誰も、政治に期待しなくなった状態というのが今の状態だと思われる。
コレ、いかにもカソリックのイタリアらしいではないか。

プロテスタントが持ち出した「自由」という大義を共有する米国はこの対極。神が正しいと考える政治というものがある筈ということで、あくなき政治的挑戦を繰り広げる。下手をすれば四分五裂ではと思ってしまうが、移民国家であるからそんなことはたいした問題ではないのだ。
カソリックの国はこうはいかない。政治とは原罪を負う人間がやっていることであり、もともとたいしたことはできない。しゃかりきになれば、せいぜいがバベルの塔建立であり、期待をかけることはあり得ない。醒めた目で眺める訳で、換言すれば、自分達の小さなコミュニティの目からの損得勘定以上のことは無関心。
国家的視野での一番の関心事とは、ゴシップとスポーツだろう。それがイタリアの現実では。それに見合った政治家に一番人気が集まる訳である。

もともと、イタリアを統一する必然性があった訳ではなかろう。どう見ても、言語的にまとまっている集団以上ではなかろう。ムッソリーニの登場は、そういう意味では必然でもある。地域コミュニティの損得勘定では大きなプラスに映るし、国家としての一体感を生む一番手っ取り早い方法なのもあきらかだからだ。と言うか、カソリックの地域コミュニテイが社会生活においては一義的なものだから、国家観が定まりようがないことの裏返しといえよう。
日本の地方のコミュニティは、こうしたイタリアと似たような体質ではなかろうか。ただ、経典宗教ではなく、土着の歴史の共有感が一体感を醸し出しているのだと思われる。
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