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■■■ 日本語の語彙を探る [2015.3.26] ■■■
身体の倭語

五体満足とは、欠損がないからだ[体]を指す。その5ッとは何を指すかと言えば、て・あし・ひたい[両手・両膝・額]。これら全てを地につける行為を五体投地と呼ぶことでわかる。仏教は普及したが、"五体=からだ"観は身につかなかったようである。在家信者は、合掌はすれども、投地せずだから。
5ではなく、4だと四体[人的四个身体部位]であり、頭・胴・手・足となる。こちらは、いかにも「科学」的用語臭い。古代の発想からは縁遠そう。

日本の場合、人間とは「青人草」。[古事記]
伊邪那岐命、告其"桃子"、
「汝如助吾、於、葦原中国、所有、宇都志伎、
青人草之落苦瀬而、患惚時、可助、」
 告、賜名。号、"意富加牟豆美命"。

仏教に帰依していても、輪廻観に転向することもなく、青草感覚は失われなかったようだ。「思子等歌」(瓜食めば 子ども思ほゆ・・・山上憶良 [万葉集#802])序文でも確認できる。
釋迦如来金口正説 等思衆生如羅
又説 愛無過子 至極大聖尚有愛子之心
況乎世間
蒼生誰不愛子乎

従って、古代の倭人は、植物と人間のパーツを同じ用語で語っていたと見てもよかろう。

その場合、基本用語は「」と見るのが自然。植物は「実」だし、人間なら「身」。
その「中身」は、霊的存在である魂、つまり「たま」である。
それが失われると、空[から]的状況になり、「から」だけが残る。植物の場合はそれは枯れた状態の殻である。"枯れる"は「から」の動詞形と見ることができよう。
人間の場合だと、それは亡骸、即ち、魂"無き"「から」である。一般には、それは体、「から-だ」と呼ぶ。当然ながら、もともとは、「体」とは健康な体躯を意味してはいなかった訳で、遺体を指す言葉だった。それが、科学的見方が入ってきたので、魂の有無を表現する語彙の「身」を止めて、「身体」と文字を重ねることで、「」の意味でもあり、「からだ」でもあるという、習合用語にしたのだろう。

実/身が総括的概念だとすると、末梢的なモノを示す語彙は端こと「」である。
植物では「葉」であり、人間では「-だ」こと「肌/膚」だろう。おそらく、皮は青草ではなく、獣類の用語。しかし、分けていると非科学的に映るから、カワとハダを習合させた、皮膚という人造語を作ったのだと思われる。ただ、もともとカワとはカハで、"被り"肌の意味と解釈できるから、皮膚とは上皮と内肌を合わせた概念と考えることもできよう。
「ハ」の類縁植物語彙としては「はな」。葉の延長としての「花」である。人間では「鼻」に相当するのは、香りに関係するから自然な見方。

音としてはおなじ「ハ」の「歯」も「鼻」のほぼお隣にあるので類縁だが、獣にも存在するから、こちらの発祥は「刃」と考えるべきだが、青人草なのだから、葉の一種と言ってもかまわないだろう。

ハよりも重要なのが「め/ま」。植物では「芽」であり、人間では「目」。「目の子[まなこ]」は「眼」だし、「ま-ゆ」は「眉」となる。精気を感じさせる部位ということ。

この「メ・ハナ」が存在する側を"表 v.s. 裏"の表とする。南島にミパナ[宮古]ウムティ[先島]という用語が残っているが、"表/面手を上げ"という用語の可能性もあるが、古代からの言葉かもしれない。沖縄本島はチラであり、「面[ツラ]」を用いるようだから。ともあれ、オモとかツラは抽象概念だから、メハナより新しい言葉と見てよかろう。

「クチ」は「メ・ハ」とは違って基本語彙ではない。青草には存在しないからだ。
口とは「食う路」ということで「くち」となる。口唇[クチビル]は口縁というに過ぎまい。
そうだとすれば、舌[シタ]は「浸た」だし、喉[ノド]は「呑む門戸」が発祥だろう。

青草の真髄は、その精霊でもある「実」だが、イネ科のような草の場合は実は物理的には小さくその集合体である「穂[ホ]」こそが生命を次世代に繋げる部位ということになろう。
これに対応する人間の部位が頬、「」。古事記を眺めると、ホは火焔を意味する言葉でもある。イメージ的には穂は活力そのものであり、倭人は膨れて赤味を帯びた頬に生気を感じていたなら、焔、穂、頬が同一情緒を土台とする共通概念と考えてもよさそう。情緒大好き民族のようだし。
[かほ]の成り立ちは想像がつかぬが、ホ々の類縁語だろう。

こんな風に考えれば、耳[みみ]は頬の延長と見なされて、「身」の象徴部位とされた可能性が高かろう。「実々」ということ。

「頭」をどう解釈するかは厄介である。青草には存在しないから、「天魂[あたま]」ということかも。(カシラ、コウベは新語ではないか。)
頭の天辺は「髪」だが、神とは無関係で、単なる上部という用語である可能性が高かろう。「上の毛」、「下の毛」と見ることができそうだから。ここにおける「毛」とは「生」の意味であり、一般的に使われるケ(怪)となんら変わらない言葉だと思う。
鬢の毛と言われるビンは調髪が始まった近世の用語で対応倭語はないかも知れぬ。せいぜいのところ、ビンという漢語的音が嫌いな人が、「頬耳上げ」という用語として、モミアゲと呼んだ位か。尚、頬毛とはヒゲをだろう。

あと、頭でよく使われる用語に、ヒタヒ/ヌカ[額]があるが、これはよくわからぬ。お凸を多用するから、倭語感覚とは違う系譜の言葉かも。
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