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■■■ 日本の基底文化を考える [2016.2.3] ■■■
ボロこそが勿体ないの元祖では

小生は「もったいない」キャンペーンになんとなく違和感を抱くクチ。無駄を慎み、節約しようという意味で使われているからだ。
「勿体[モッタイ]」の字義から言えば、確かに、価値あるモノを活かさないのは残念ダとの意味の言葉ではあるが、それは現代の節約感とは全く違うと考えるからである。

それは、襤褸[ボロ]や、僧侶が纏う袈裟の最上級品たる糞掃衣に対して使う言葉ではないだろうか。だからこそ、"そのような「もったいない」お言葉を頂戴して、・・・"というような表現が生まれるのだと思う。ココに節約感などある訳がないし、セコハン推奨の考え方が含まれているとは思えまい。

なんでも無駄にしないという思想が流れていると言えば、その通りだが、襤褸や糞掃衣を尊ぶ精神は節約ではなかろう。両者の感覚は全く異なるのではないか。
先人達が、愛着をもって、多大な手間をかけて補修を繰り返しながら、現代では考えられないような長期間に渡って使って来た品物に対する尊崇の念の表象こそが「もったいない」だと思うから。

おそらく、この思想は、仏教と日本土着信仰の習合したもの。
前者は、長方形の小さな生地を田圃のように繋ぎ合わせた一枚布を仏教修行者の制服「袈裟」としたことに由来する。使い古され汚れきったような色のものを着用することに決めた訳だ。
後者は、モノには靈が籠るという宗教心。そこには布や染料の生命力が残っているし、それを作り補修した人々の籠めた精神力が埋まっており、大事に使ってきた人の愛情も乗っかっていると考えるのである。
マ、現代で言えば、はき込んで色落ちしたUSEDジーンズを有り難がるようなもの。もっとも、人工的な類似品を嬉しがる人が多いから単なる流行りと見なすべきかも知れぬが。

古代裂に美を見出すのも、そのような一種の信仰心がないと難しいのでは。
そうでなければ、上代の品々を宝物として保存し続けてる訳がないと思うからだ。
○東京国立博物館にも、法隆寺献納品として、麻の七条「(伝)聖徳太子糞掃衣」、絹の「(作品)釈尊糞掃衣」、赤褐色の絹の「(作品)達磨大師袈裟」(完成品)が所蔵されている。尚、法隆寺には、古代裂は1万点ほとあると言われている。
○正倉院[北倉1宝物]には、聖武天皇遺愛品である「九条刺衲樹皮色袈裟第1号」「七条刺衲樹皮色袈裟第9号」「七条織成樹皮色袈裟第3号」が所蔵されている。この他に古代裂は俗に20万点とか。


もちろん、宗祖の袈裟も系譜の正統性を示す証拠として大切にされて来た。
○荊溪[中国天台宗第六祖]-最澄相伝の袈裟@8世紀
○恵果-空海相伝の袈裟
@9世紀
○道元が弟子達が心を籠めて染色した布を自ら縫製した袈裟
@鎌倉時代

海外では、古代布は遺跡発掘品でたまたま見つかることがあるが、たいていはあるかないかのような断片でしかない。染色の様子や縫製技術まではっきりとわかる染織品が残っているのは日本位のものだろう。

(参照)
京都国立博物館 特別展「高僧と袈裟」 2010
沢田むつ代:「法隆寺の染織品」 繊維と工業 59(11) 2003
九馬慧忠:「袈裟のはなし」 法蔵館 2000
松村薫子:「糞掃衣の研究 その歴史と聖性」日本仏教史研究叢書 法蔵館 2006

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