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■■■ 日本の基底文化を考える [2018.3.25] ■■■
蜘蛛をこよなく愛した人々[続々]

蜘蛛が出てくるのは、恋人到来の予兆というのが古代日本の民俗信仰だった。
それがいつのまにか、蜘蛛を敵視するようになってしまったのである。

どういうことかネ〜。

歌での蜘蛛の初出は、「万葉集」の山上憶良:「貧窮問答歌」[#892]であろう。ご存知のように、ここでは甑に蜘蛛の巣が張られている情景が貧窮の象徴として描かれている。・・・
可麻度柔播 火氣布伎多弖受 許之伎尓波 久毛能須可伎弖 飯炊 事毛和須礼提
(竈には火気吹き立てず 甑には蜘蛛の巣かきて 飯炊くことも忘れて)

しかし、家の状況とは無縁なシーンでも蜘蛛は登場してくる。通い婚の時代だから、通りすがりに見かけた蜘蛛の巣に自分の気分が投影されるのだろう。
是貞の親王の家の歌合に詠める[@892年]
 秋の野に 置く白露は 玉なれや
  貫きかくる 蜘蛛の糸すぢ

    文屋朝康[「古今和歌集」巻四 秋歌上 #225]

雨上がりに蜘蛛の巣についた露玉が光っているのは美しいものだが、もともと蜘蛛の造形美を称える美意識もあったようである。蜘蛛手という建築用語(橋柱支持の筋交材)が通用していたのだから。
堀河院御時、百首歌奉けるに詠める
 並み立てる 松の下枝[しづえ]を 蜘蛛手にて
  霞渡れる 天の橋立

    源俊頼[「詞花集」巻九 雑上#274]

ただ、和歌では、あまり"くも"という言葉は使われず、もっぱら"ささがに"。小さな蟹[細蟹]を指す言葉だが、枕詞として頻繁に使われている。・・・
 「さゝがにとは くもを云ふ」[「能因歌枕」]

この場合、恋人来訪を知らせる蜘蛛という伝統的なコンセプトで使われ始めたと見てよさそう。何故に突然にして蟹がでてくるのか、その理由は定かではないが、"くも"と言うと雲と間違い易いからだろうか。
肌が透けて見えるような高級な薄絹の単衣を着用し、允恭天皇の寵愛を獲得したものの、姉の皇后の嫉妬を読んでしまったことで知られる歌からそう思うにすぎぬが。
衣通姫の独りゐて帝を恋ひ奉りて
 わが背子が 来べき宵なり ささがにの
  蜘蛛のふるまひ かねてしるしも

    衣通姫[「古今和歌集」墨滅歌 #1110]
この歌にかかわらず、どの歌も、多少ニュアンスは異なっていても、蜘蛛が待ち人の象徴として登場する。何匹もの♂が命を賭けて♀のもとに必死に通ってくるシーンに感動してのことだろう。
 今しはと わびにしものを ささがにの
  衣にかかり 我を頼むる

    詠み人知らず[「古今和歌集」巻十五 恋歌五 #773]

と言っても、純粋に情景を詠っているだけの物名歌にも登場する。
をみなへし[女郎花]
 白露を 玉に貫くとや ささがにの
  花にも葉にも 糸をみな綜し

    紀友則[「古今和歌集」巻十 物名 #437]

そうそう、貧窮の象徴としての、家に貼られてしまった蜘蛛の巣にしても、それを嘆き悲しんでいる風情はほとんど感じられないのが一大特徴でもある。あばら家の発祥元かも知れぬ歌には、不遇感や嫌悪感はなさそうだ。
三百六十首のなかに
 秋風は 吹きな破りそ 我宿の
  あばらかくせる 蛛の巣がきを

    曽禰好忠[「拾遺和歌集」巻一七 雑秋#1111]

草庵住まいを追及するようになれば、それは好ましい環境を示す情景と化す。
蜘蛛のいに露のかかれるを見て
 ささがにの 糸にかかれる 白露は
  荒れたる宿の 玉簾哉

    [「能因法師集」巻上#99]
荒れた住まいに懸った蜘蛛の巣だが、露が光ってなんと美しいことか。贅を尽くした工芸品の暖簾より素晴らしいという訳である。

(参照) "古典文学の蜘蛛"@岩下均:「虫曼荼羅: 古典に見る日本人の心象」

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