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■■■ 日本の基底文化を考える [2018.5.28] ■■■
蜘蛛をこよなく愛した人々[4]

"日本の国内で、蜘蛛に妖怪としてのイメージが希薄だったことは、中世の説話集にも蜘蛛の妖怪譚が一つも出てこないところからも伺える。
蜘蛛が出てくる説話は『今昔物語集』に一話、『古今著聞集』に一話あるが、どちらも昆虫としての蜘蛛を描いている。"
[渡瀬淳子:「「蜘蛛切」考――土蜘蛛説話の形成と漢籍――」古典遺産 5, 2003]

と言うことで、「今昔物語 巻廿九 蜂擬報蜘蛛怨語 第卅七(蜂 蜘蛛ニ怨ヲ報ゼント擬ル語)を眺めてみたい。

お話の筋はなんということもない。
蜂を狩っていた蜘蛛を見つけた法師が、哀れに思ったらしく蜂を助けてやったのである。その後、蜂は仲間大勢を引き連れ報復にやってくる。蜘蛛は、そんな体質を知っており、すでに逃亡。蓮の葉裏から糸を伸ばし水面近くにいたという。・・・
今昔。法成寺の阿彌陀堂の檐に、蜘蛛の網を造たりけり。其の__長く引て、東の池に有る蓮の葉に通じたりけり。
此れを見る人 遥に引たる蜘蛛の_かな など云て有ける程に。大きなる蜂 一つ飛来て 其の網の邊を渡けるに。其の網に懸りにけり。其の時に何こよりか出来けむ。蜘蛛_に傳ひて急ぎ出来て。此の蜂を只巻に巻ければ。蜂 巻被れて逃
()ぐ可き様も無くて有ける。
其御堂の預也ける法師 此れを見て。蜂の死なむずるを哀むで。木を以て掻落しければ。蜂土に落たりけれども 翼をつぶめ巻籠被れて 否飛不ざりければ。法師 木を以て蜂を抑へて。__を掻去たりける時に 蜂 飛て去にけり。
其の後 一両日を経て 大きなる蜂一つ飛来て。御堂の檐にぶめき行く。其れに次きて 何こより来るとも不見えで 同程なる蜂二三百許飛来ぬ。其の蜘蛛の網造たる邊に 皆飛付て。檐垂木の迫などを求けるに。其の時に蜘蛛見え不りけり。蜂 暫く有て 其の引たる糸を尋て。東の池に行て、其の__を引たる蓮の葉の上に付ぶめき、けるに。蜘蛛 其れにも不見えざりければ。半時許有て 蜂 皆飛去て失にけり。
其の時に 御堂の預の法師 此れを見て 怪び思ふに。此れは 早う 一日蜘蛛の網に懸りて巻かれ被たりし蜂の。多の蜂を倡て来て 敵罸むとて 其の蜘蛛を求むる也けり。然れば 蜘蛛は其れを知て 隠れにけるなめり と心得て。蜂共飛去て後に 法師 其の網の邊に行て檐を見るに。蜘蛛 更に見えざりければ。池に行て 其の引たる蓮の葉を見ければ。其の蓮の葉をこそ 針を以て差たるに 隙も無く差たりければ。然て蜘蛛は其の蓮の葉の下に 蓮の葉の裏にも付不で __に付て 螫不被まじき程に。水際に下てこそ有けれ。蓮の葉の裏返て垂敷き 異草共など池に滋たれば 蜘蛛 其の中に隠れて 蜂は否不見付ざりけるにこそ。
此は 預りの法師 此と見て 返て語り傳へたる也けり。
此れを思ふに 智り有らむ人すら 然は否思ひ寄らしか。蜂の多の蜂を倡集めて 怨を報ぜむと為るに 然も有なむ。獣は互に敵を罸つ 常の事也。其れに 蜘蛛の 蜂 我れを罸に来らむずらむ と心得て。然て許こそ 命は助からめ と思得て。破無くして 此を隠れて命を存ずる事は有難し。然れば 蜂には蜘蛛遥に増たり。預の法師の 正しく語り傳へたるとや。

(source) 黒板勝美校訂「国史大系 第16巻 今昔物語(源隆国)」経済雑誌社 1897-1901年@NDL近代デジタルコレクション [#753-4]

蜂は女王蜂の下に集団営巣する社会性を持つ虫。一匹狼的な習性の蜘蛛とは正反対。
よく知られているのは、巣が攻撃されると、総勢あげて襲撃体制に入る点。
それは、一匹の命の価値より、社会全体の防衛を優先するルールが貫徹されていることを意味する。人間社会とそっくり。その現象を、自己犠牲精神として美化するか、はたまた支配者に従順なだけの愚鈍性と解釈するかはヒトそれぞれ。

ただ、この話は、おそらく「フィクション」である。
蜂の場合、一匹がたまたま襲われたからといって蜂社会に影響を及ぼす"事件"ではないなら、無視され、報復に立ち上がる訳がない。そんな些細なことに関わっていたら社会的損失以外のなにものでもないからだ。
そこらは、地面での集団餌収集活動が生命線の蟻とは違う。蟻の場合は、テリトリー内で獰猛性を見せつけ、覇権を確保することが不可欠。従って、たった一匹が襲撃されたといっても、見逃していれば覇権を揺るがしかねない可能性があろう。従って、集団で危険な兆候を取り除くために動かねばならぬ筈。

これはそんなことを知りながらの一文と見るべきである。

つまり、この法師の頭の悪さを指摘しているということ。

そもそも、蜘蛛は肉食であり、蜂を主食としているなら襲うのは当たり前。
それを、命を奪うのは残酷であるという勝手な解釈で捕獲された蜂を救うなど、小市民の身勝手な道徳倫理観そのもの。
その行為には大乗仏教的な衆生救済のために生きるという発想など全く感じられない訳で、見えてくるのは精神的弛緩のみ。

そのような法師とは違い、蜘蛛は世界をよく見ており、緊張感に満ちた生活者といってよいだろう。
法師はそこに蜘蛛の優れた智慧を見つけ、自分の行為の愚かさに気付かされたのである。それをなんとしても人々に伝えたいと考えた時点で、法師は初めて仏教徒となったのである。(お話の最後の箇所にはそれがわからない人のための文章がつけられている。)

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