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■■■ 日本の基底文化を考える [2018.6.3] ■■■
蜘蛛をこよなく愛した人々[9]

西鶴の浮世草子モノに町民の生活心得を経済面から描いている作品がある。
本の題名が通用しているだけで余り読まれてはいないようだが、それこそ温故知新的に一時的に取り上げられることは少なくない。欲に目がくらんだ経済事件が発生すると、必ずといってよいほど、一部が引用されることになる。

そんな本に、蜘蛛が登場してくる。
特段のひねりも無く凡庸な筋なので、多分、滅多に取り上げられない話。
小生は、導入部分に鋭い指摘があるのでもっと注目されてもよいと思うが。

と言うのは、中国との交易は資金量を必要とするし、リスクも高いのだが、それなりの信頼関係が構築できるとされているから。
それだけなら驚くことはないが、中国商人は契約に実直であり、嘘偽りなき商売に徹しているというのである。
ところがそれに比し、本邦では、まがいものや、嘘八百的な取引が当たり前。その時儲かるなら、なんでもござれの、およそ倫理感無き状況。
両者の差は余りに大きいと言うのである。日本が、いかに、精神的に貧しい国であったかよくわかる記述。

マ、そんな話を枕にした、海外との交易商人の失敗から立ち直って成功を収めるストーリー。ただ、その立ち直りの原点は「騙し」なのである。ここらが皮肉半分だが、ベンチャーなどそんなものということでもある。
もちろん、世の中ではその「騙し」を正当と評価している訳で、そこらあたりをどう考えるかネ、と西鶴は問うているのである。

これでは、蜘蛛が話にどうかか皆目わからないか。

主人公が復活に賭けようという気になる切欠を与えてくれた大恩人として描かれているのだ。
失敗にめげず、淡々と仕事に励み、それを楽しんでいそうな情景が、心に沁みたという訳。・・・

井原西鶴:「日本永代蔵−大福新長者教」1688年
 巻四-二"心を畳込古筆屏風"
  筑前にかくれなき舟持
  蜘の糸のかゝるためしも


主人公は博多に住む金屋。長崎に渡来した輸入品を取り扱う大商人。
ところが、1年に3回も船が大風に見舞われ積荷を喪失。結果、蓄財すべてを失ってしまう。
貧しい暮らしに落ち込んだが、機転を利かせ、"目利き"の才で一大財をなす。

その切欠は遊女が持っていた屏風の価値を見抜いたこと。足しげく通うことで、そうとは知らぬ遊女からこれを獲得し、大名家に献上。これによって大成功をおさめたのである。もちろん、その後、遊女を請け出し、恋人と連れ添わせそれなりに十分報いた訳だが。

なんといっても、失敗から立ち直った際の状況がハイライト。
住吉大明神に子孫には船にかかわる商売はさせないと誓約。そして、網を張ろうと頑張る蜘蛛の姿に目が行ったのである。

家を売り払い、それを元手に再興を図ることに。そして、長崎に出向くのだが、僅かな資金しかないので思うようにいかず。ついに、遊女のところに。
そこで、枕許の屏風に気付くことになる。

孫子に伝えて船には乗せまじきと、住吉大明神を心誓言に立て、
ある夕暮れに端居して涼風を願ひ、四方山を詠めしに、
雲の峰に立ちかさなり、龍も登るべき風情。
「空定めなきは人の身代、
 我貧家となれば、庭も茂みの落葉に埋もれ、
 いつとなく葎の宿にして、萬の夏虫野を内になし、
 諸声の哀れなり。」
見越の大竹より杉の梢に蜘(蛛)の糸筋はへて、
これをわたれば嵐に切られて、中程よりその身落ちて命もあやうしかりしに、
又も糸をかけて伝えば切れ、
三度まで難儀にあひしに、終に四度めにわたりおほせて、
間もなく蜘蛛の家を造りて、飛ぶ蚊のこれにかかるをおのが食物にして、
なほ/\糸くりかへすを見て、
「あれさへ心ながく巣を掛けおほせて楽しむなれば、
 いはんや人間の気短に、物ごと打ち捨つる事なかれ」と、


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