[→本シリーズ−INDEX] ■■■ 日本の基底文化を考える [2018.6.7] ■■■ 蜘蛛をこよなく愛した人々[13] 蜘蛛は昆虫と違って8脚であり、それを放射状に伸ばす種が少なくない。 徘徊系と造網系があるが、前者でも歩行に熱心な種は稀で餌を待ち構えていて跳びかかるので、歩脚というより捕捉手との印象が強いから、蜘蛛の足というより、蜘蛛の手と呼びたくなる。 そんな自然な感覚から「蜘蛛手」という表現が使われているとは思えないが、恋歌には使い易い用語なのは間違いない。 三十六歌仙に入る皇后定子の女房、馬内侍の歌も。・・・ 蜘蛛手さへ かき絶えにける 細蟹の 命を今は 何にかけまし (ついに手(紙)も絶えてしまいました。命をどこに架けましょうや。) しかし、一番有名なのは、"昔、男ありけり。"という語句で知られる伊勢物語のくだり。 単に、水流が八方に分岐していると書けば済むのにあえて蜘蛛を比喩的に使っているのだ。おそらく、蜘蛛に水神的なイメージがあるのだろう。・・・ 三河の国、八橋といふ所にいたりぬ。 そこを八橋といひけるは、 水ゆく河の蜘蛛手なれば、 橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋といひける。 その沢のほとりの木の陰に下り居て、餉食ひけり。 その沢に、かきつばたいとおもしろく咲きたり。 伊勢物語 九段東下り[三河] 西行法師も同じ感覚で使っている。・・・ 五月雨に 水まさるらし 宇治橋や 蜘蛛手にかかる 波の白糸 山家集 夏歌[五月雨]日文研#156 しかし、辞書的には、これ以外の、四方八方に駆けめぐるとか、縦横無尽に振り回す意味で使われるとの解説の方に重点がおかれているようだ。 「平家物語」の"木曾義仲最期"の項での文章のインパクトが強いからだろう。・・・ 木曾三百余騎、六千余騎が中を 縦様、横様、蜘蛛手、十文字に駆け回って、 後へつっと出でたれば、五十騎ばかりになりにけり。 ココで蜘蛛のイメージが一変させられていると言ってもよいのでは。 その後、「蜘蛛手」という語彙は一人歩きしていったようである。 時代の結節点に映る"二条城行幸"で知られる後水尾院[在位:1611-1629年]が東照宮(徳川家康)三十三回忌に当たって詠んだ歌は“蜘蛛手”と呼ばれているが、これがとんでもなく凝った技巧的作品。書の中心部が八方放射状だから“蜘蛛手”と言うことなのだろうが、“蜘蛛網”的な手口、あるいは、恐るべき"蜘蛛の知"の結晶という気がしないでもない。 縦横7列7行に14首の和歌を正方形に並べた上で、さらに、対角線に2首。合計16首を揃えたのである。・・・ 【7列】 年をへて うやまひませる しめのうちに みことのりをば 神も聞ききや たのむべき やどならなくに ここにしも 来てとふ人を 待つがはかなさ 浮きて寄る 山吹桜 この岸に たゆふ波の うつらへに見む 降り来るも やすくぞすぐる 山おろしに ただよふ雲や かつしぐるらし らくと見るも やがてうけくの たねとしれ ただおもふべきはしつう仏しやう 故里は 八重の白雲 へだてしに 行きかふ夢を 見つるあはれさ むま玉の 暗く迷はむ 道もいざ 知らず来ぬらし 世をさとる人 【7行】 問ひ見ばや ふけゆくからに 蓬生の 月に浮世を へだてたるかと うゝき霧と ややながめやる 芦の屋の もそほやくてふ こやの烟を せき入れて 汲まむも幾世 しら菊の 下ゆく水に めぐるさかずき 浦に釣り しまにひくしも なつかしき 春にしあかずみし 桜鯛 残り居て 古き世こふる 浅茅生に 雨と降るらし けふの涙は 見し春の つつじをうつす 山水の ただ松青き 夏になり行く やよい山 咲きおくれむも うらみじな 花を卯月の ぬさとたむけむ 【斜】 鳥も知れ やよや浅くは 恨みじよ この夜深さを いつかわすれむ 時すぐる 山田のおくて あだにしも 霜にふりゆく 恥しの身や 前部で49の交点が生まれるが、そこはすべて漢字一文字。 うち外周の24文字は「東照の宮三十三回忌を弔ふ歌」と読めるようになっている。 登有勢宇能美屋散無志右佐牟具半以喜越騰部良夫有太 さらに残りの25文字だが、どの列も「薬師仏」なのだ。 也九師不津 屋久之布都 夜来思婦徒 弥倶斯武頭 八苦四副通 恐るべき執念。 (参照)熊倉功夫:「後水尾天皇」同時代ライブラリー170 岩波書店 1994年 本シリーズ−INDEX> 超日本語大研究−INDEX> 表紙> (C) 2018 RandDManagement.com |