[→本シリーズ−INDEX] ■■■ 日本の基底文化を考える [2018.6.17] ■■■ 蜘蛛をこよなく愛した人々[23] 「喰わず女房」と名付けられている民話が各地に伝わっている。 基本的な筋は概ね同じ。・・・ 飯不要な女を嫁にしたいと望む男がその願望実現。要するに、吝嗇的性格か貧乏根性の男ということだが、桶作り職人であることが多い。 ところが、結婚生活を始めると、食糧がガタ減りでおかしい。調べると、嫁が大量に食べていることがわかった。しかも、頭に口があり、人間ではないのである。 そこで離縁となるが、正体を現した女は、男を拉致して喰おうとするが失敗。 (正体暴きの方法、失敗の理由や、女の運命についてはバリエーション化している。) それだけのこと。 その正体だが、基本形は山姥(やまんば)。変化形が、鬼女・蛇女、化かす狐や狸、水系の河童や蛙。蜘蛛になる場合も少なくない。 どういう理屈かは知らぬが、もともとの古い形は、水に関係する霊的存在が人間に嫁ぐ"異類女房譚"の類と考えられているらしい。 それはそうかも知れぬが、小生は、この話の本質はそういう見方ではつかめないのではないかと思う。 何と言っても、ポイントは、桶職人の話であること。 近世の知識が頭に入っているから、桶職人と言われると、どうしても、街住の桶大工集団や酒樽製造屋のイメージが浮かんでしまうが、もともとは竹箍を担いで一人で家々を回って修理する旅職人。 面白可笑しい話を持って行くのも、仕事の依頼を切らさない術である。竹箍を専門職人から購入することもできなかったろうから、竹林での伐採から自分の手で行っていたと考えれば、持ちネタとしての面白蜘蛛話は色々あったと見てよいだろう。竹林は手入れしない場所だとそこは蜘蛛の巣のオンパレードだから。(女郎蜘蛛類がほとんど。) ともあれ、里の住民からその役割を認められた存在であり、定期的訪問者だった訳である。しかしながら、収入は不安定になりがちだったろうし、風来坊的な生活を余儀なくされていた職人が大半だと思う。嫁を得るなど夢に近かったかも。 しかし、修理需用が急増すればそれなりの収入を得ることも可能になる。そうなれば、気立てのよい美しい嫁を娶ったりする職人が現れても不思議ではなかろう。里の住民は面白くなかろうが。 そんな余裕があるなら地域に金を出せと言いたくもなろうし、金がありそうだから嫁の世話を始める住民も出てこよう。だが、その体質はあくまでも旅職人。密な交流は拒むことになる。住民からの嫌がらせ多発もあり得よう。"桶屋の嫁は山姥"と里の子供達囃されたりして。 それが、「喰わず女房」譚が拡がった要因とは言えまいか。 この山姥だが、小生は、こうした里に嫁捨て習慣があったことを示していると見る。老齢化してきた嫁の食い扶持はもったいないとなり、離縁放逐するのである。行くところなどある訳がないから、山に入って飢え死にしてもらうという目論見。ところが、案に相違し、生き残ることもママある。盗賊団の下働きとか、深夜の芥漁りでなんとか生き延びることになる。そうなれば、どちらにしても、鬼的存在とされてしまう。 そんな"山姥"の本質を知っている住民がいる地域では、山姥を蜘蛛女に代替することになる。(ヒト型で無いことを強調すべく、飯は口から食べず、魚型の頭上にある別な口から、とされることも。) 面白蜘蛛話を得意とする桶職人には、蜘蛛女が似つかわしいが、要は、なんでもよいのである。 ・・・こんな想定如何かナ。 尚、竹林だが、孟宗竹や真竹は日本の土着種ではない。竹の記述は古くからあるが、古代日本に竹林が拡がっていたと考えるべきではない。 【付記】 「蜘蛛譚」「動物女房譚」といった"モチーフ"で整理するのは、分析上不可欠。しかし、その視点での分類観にはたいした意味はないと考えるべきだろう。"概念&シナリオ"の世界から遠ざかるだけだからだ。例えば、袋狼(有袋類)と狼(有胎盤類)は、外面的にも習性的にそっくり同じ。しかし、表現形は同一でも異なるグループに属すると見なす。だからこそ意義がある。イエス・キリスト、釈尊、孔子は歴史上実在した"宗祖聖人"。一方、God、大日如来、天帝は抽象化された"最高神"と分類するようなもの。ソリャその通りだが、そんな見方にどれだけの意義があるかということ。 本シリーズ−INDEX> 超日本語大研究−INDEX> 表紙> (C) 2018 RandDManagement.com |